◯『よしの冊子』〔百花苑〕⑧227(水野為長著・天明八年(1788)十月記)
〝(松平出羽守家臣、荻野喜内)自分の名を孔平(クヒラ)信敏(シンヒン)と申候て(中略)江戸中の神社へ参詣
いたし、高き処に孔平信敏と申候字を白字に摺申候て張置申候由〟
◯『江戸町触集成』第十巻(近世史料研究会編・塙書房・1998年刊)
(寛政十一年(1799)七月二十一日付)
〝近頃神社仏閣江千社参と唱、講中抔を極申合参詣致、札を張歩行候もの有之由、神仏を尊信致候迚も、
講中抔を立、茶屋抔江寄合、千社参詣之札を為取替、右之内ニは世話人等有之、右講中之者より銭抔取
集、手広千社之札を張候ヲ名聞之様ニ心得候者も有之由、宜からぬ事ニ候、右類之義は無之様、町役人
共より堅相制、向後心得違之もの有之ハ、其段早々奉行所江可申立候〟
◯『街談文々集要』p78(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化四年(1805)記事「孔平鎮樹魂」)
〝文化四丁卯春、葺屋町市村座普請出来にて、二月五日初る【去る十一月十三日夜ふきや町河岸より出火】
狂言ハ去歳の顔見世狂言を其儘に興行す。然る処、此度大梁に用し棟の木ハ、麻布笄ばし、長谷寺山内
の樹にて、道法も近く、すぐれて早く出来しけり、此木、夜な/\叫(ウメ)きければ、芝居夜番のもの恐
れて、さま/\加持などしけるに、其しるしも見得ず、爰に天愚孔平と云老人ぇ瀬川路暁【三代目瀬川
菊之丞門弟、初め板東千代之助、其後中村十蔵門弟となり、中村千之助と改名、後仙女養子トなり、四
代目路孝也】にしか/\の事ありと物語りければ、孔平筆をとりて、四言一章の詩を賦シ、是を棟木に
張り置べしと、渡されし故、早速大梁へはらせけるに、其事追々うすらぎ、無程止
(ヤミ)しと云々、其詩、
隠々啼哭 無益招魂 殷云佐戯 尚享蘋繁
右鳩谷天愚孔平平信敏
此人は雲州の家士の隠居にて、鳩谷三人ト云々、石摺の札を江戸中は勿論、近在所々の神社仏閣(ママ)張
る、是を千社参りト号す、二十余年休することなし、是一畸人といふべし〟
◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥51(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)
〝神社仏閣千社参の札な張る事は、天明年中、椛町十二丁目てんかうと云男、参詣せしを覚への為めに張
たるを、其後同五丁目吉五郎と申男、是も又天紅同様に張たるなり、寛政中比より此札を張る事名聞と
なりて、参詣拝もせず、唯いたづらに、張歩行なり、近頃見れば下谷三枚橋御橋の本にて、三月十八日
或は晦日、此連中と見へて互に札を取替する也、是を思へば其人々、最寄々々へ互に張遣す事と見へけ
る、何事も唯名聞のみ流行て、芸者風又は物知り顔計で、腹に物なき人多かりき〟
◯『浮世絵』第二号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「千社札と浮世絵」扇のひろ麿(13/24コマ)
〝 この納札(千社札)は道歩札と交換札の二つに分れて居て、道歩といふのは、神社仏閣を貼つて歩く
墨摺一遍に限るもの、交換札は一定の席上へ寄つて各自意匠を凝らした札を互に交換するもので、これ
には彩色五六遍より、多きは廿余遍摺に至るものがある。
千社札に浮世絵を応用したのは、今云つた交換札に属するもので、先づ交換札の起りを云ふと、寛政
十一年己未四月五日京橋卅間堀三丁目長島(題名を銀市と云ふ)方で、始めて江戸中大寄合と云ふ名の
下に開いたのであつた。
この大寄合を文化十一年四月五日とする人があるが、これは何かの間違いであらう、寛政十一年と云
ふ確たる證は山中笑先生が珍蔵せらる、銀谷留自帖「寄合札貼込帳」の巻頭に「寛政十一年未四月五日
始めて江戸中大寄合引札のづ」として其時出した、ちらしの写しがあるのを見ても、文化とするのは誤
りである。
此交換会が浮世絵と接近する萌芽(めざし)となつて、今迄題名で意匠を凝して居たものが、絵を加え
て題名に応用する傾向が現はれて来た。
浮世絵として納札(千社札)に署名したのは、自分の見た所で古いと思つたのは、秋月等琳であつた。
これは文化~文政時代で、其頃玉渓と云ふ人が「東海道五十三次」を二丁札で五十五枚揃ひを描いた、
此玉渓は伝が詳(つまびら)かでないが、或は岡田玉山の門人ではあるまいか、姑(しばら)く疑ひを存し
て置く、天保となつて渓斎英泉と北斎門人の北僊が描き出した、この人は画桂老人、卍斎と云つて、画
風は師の北斎に極似(こくじ)して居る、別図に出した「笑ひ上戸」が即ちそれである。
天保~嘉永時代は色彩も二三遍乃至(ないし)五六遍位ひの淡彩だつた、安政二年大地震後から所謂世
直しと云つて 一般に金廻りが能くなつて 殊に此連中が八分職人が多かつたので、これへ落ちる金が
少なからぬものであつた為 随つて納札交換会の開催も盛んなる事、月に五六回の多きに達した。其度
毎(そのたびごと)に各自意匠を競つて出した札は、彩色十五六遍から廿余遍摺位ひまであつて、殆んど
千社札をして錦絵化したと云つても遜色のない程で、此時代の筆者は云ふまでもない歌川派を以て占め
て居るが、流石に御大名と云はれた三代豊国は御免を蒙つたか一枚も見当らぬ 随つて門下もあまり書
いて居ぬ、只二代目梅蝶楼国貞が深川の梅春連(主催梅の屋春吉)に委嘱されて 似顔絵を描いたのと、
豊国没後 慶応の末から明治初年にかけて、国周、国輝、国峰が少し斗り描いた丈(だけ)である。
そこへ行くと、べらんめえの国芳は、門下全部を引提げて倶利伽羅(くりから)もん/\の兄イの背中
へ張りつけたような、宋朝水滸伝や尼子十勇士、さては八犬士、四十七士等を連札として描き捲つて居
る、こゝいらは豊国と国芳の性格が、自ら知れて面白いと思ふ、今文化時代から慶応末年迄の筆者を並
べて見ると、
等琳 玉渓 北僊 英泉 広重 二世広重 三世広重 ◯玄魚 ◯福新 国芳
芳艶 芳綱 芳幾 ◯芳兼 芳藤 芳盛 芳年 芳員 芳宗 芳雪
芳虎 芳春 芳景 芳辰 芳富 ◯芳豊 艶長 艶政 国貞 国周
国輝 国峰 歌綱 是真 狂斎 綾岡 光峨
右の内、◯印の、玄魚、福新、芳兼、艶豊の四人は筆耕を兼ねたので、玄魚は傭書家として名をなし
た梅素亭玄魚、福新は両国の扇子(あふぎ)屋で小杉斎と云つた、芳兼は竹内梅月、万字斎田てうと云つ
て 現今彫刻家の名手竹内久一翁の厳父である。艶豊は元多町の八百屋だつたので 通称市場豊と云つ
た、ちから文字とかぬり文字とか云ふ所謂撥鬢的の字は、玄魚(前名田キサ)と田てうの二人が殊に勝れ
て居た。
次にこれに携さはつた彫師と摺師とを挙げると、頭彫の名人たる、横川の彫竹・松島町の彫政、筆耕
彫の名手たる浅草の彫安を始め 彫辰・彫常・彫徳・彫富・佐七・兼吉、片田の彫長等で、此内彫政と
彫安は文久時代で腕はすばらしかつたが、懶(なま)けるのが疵だつた。摺師としては、中橋の不落斎、
堀田原の江ぎん(江崎屋銀蔵)・駒形の錦好斎・本定(ほんさだ)等であつた〟
〈納札(おさめふだ)とは、千社札のうち錦絵のような色摺のものをいう。文化頃から興って幕末まで盛んに製作された
らしい。作画はおもに国芳門流が請け負って、同じ歌川でも三代豊国の系統では総帥の豊国はじめあまり積極的でな
かったようだ〉