「擅画」の読み「擅(ほしいまま)に画く」「縦画」も「縦(ほしいまま)に画く」
「檀画」は「擅画」の誤植とする
※①〔国書DB〕:「国書データベース」 ⑮〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』(漆山又四郎著)
☆ 寛延元年(1748)
◯『小倉塵』「擅画 浪華処士 雪坑斎 北尾辰宣筆」西村源六他板 ⑮
◯『絵本教訓草』寛延元年成立(寛政四年版の画像に「擅画 北尾雪坑斎製」とあり)①
☆ 寛延二年(1749)
◯「百人一首年表」(本HP・Top)(寛延二年刊)
『至宝 百人一首女要大全』「擅画 北尾雪坑斎」
田中友水子作 西村源六・額田正三郞板 寛延二年正月刊〔跡見892〕
☆ 寛延三年(1750)
◯『絵本信夫摺』序「擅画 北尾雪坑斎製」村井喜太郎板 ⑮
☆ 宝暦四年(1754)
◯『絵本武者兵林』「擅画 大坂周防町 北尾雪坑斎辰宣」江戸 和泉屋前兵衛板「宝暦四年仲冬」①(画像)
☆ 宝暦六年(1756)
◯『絵本綟摺草』「擅画 北尾雪坑斎」藤屋弥兵衛他板 宝暦六刊 ①(明和二年版画像)
☆ 宝暦八年(1758)
◯『絵本玉濃池』「擅画 浪華処士北尾雪坑斎辰宣」銭館序 絲屋市兵衛板 ⑮
☆ 明和元年(宝暦十四年・1764)
◯『絵本草錦』「擅画 浪花雪坑斎北尾辰宣」柏原屋与市他板「明和元年十二月」〔ARC画像〕
☆ 明和二年(1765)
◯『倭百人一首玉柏』「擅画 北尾雪坑斎製〔辰宣〕」北尾仁右衛門 ①(明和三年板画像)
◯『絵本綟摺草』 「擅画 北尾雪坑斎」藤屋弥兵衛板「明和二歳正月」(画像)⑮
☆ 明和五年(1768)
◯『絵本藻塩草』「擅画 北尾重政図」北尾花藍序 雁金屋儀助板 ⑮
◯『画本鏡草』 「擅画 北尾重政図」雁金屋儀助板 ⑮
☆ 安永二年(1773)
◯『文武智勇海』(奥付)「平安 酔茶亭一鼎斎擅画〔泰平逸民〕印」
酔茶亭一鼎斎序画「安永二年孟春」京都 菊屋安兵衛板 ①
☆ 天明六年(1786)
◯『絵本八十宇治川』「擅画 東都台嶺北鄒 北尾紅翠斎」蔦屋重三郎板「天明六歳正月」①
☆ 天明七年(1787)
◯『義経一代実記』「江都縦画生 旭朗生勝春章図」丁未正月勝酉爾春章画 丁子屋平兵衛板 ⑮
☆ 寛政元年(1789)
◯『歴代武将通鑑』「檀画 東都叡嶽艮蹊樵父 北尾紅翠斎図」伯楽宿屋主人序 耕書堂主人跋 ⑮
『通俗大聖伝』 「檀画 北尾紅翠斎恭雅」山東京伝作」(早稲田大学図書館「古典藉総合データベース」)
〈「檀画」は「擅画」の誤植とされる〉
◯『三十六歌仙』 「江都縦画生 旭朗井勝酉爾春章」山崎金兵衛板
☆ 寛政二年(1890)
◯「読本年表」(寛政二年刊)
『通俗大聖伝』「檀(ママ)画 北尾紅翠斎恭雅」(巻三九丁表) 岩瀬有済(山東京伝)作 三崎屋清吉板 ①
◯『絵本接穂濃花』「江都縦画生 旭朗井勝酉爾春章」西村源六板 ⑮
☆ 寛政三年(1891)
◯『福寿草』「擅画 東都台嶽艮渓 北尾紅翠斎恭雅」寐語軒美隣作 蔦屋重三郎板 ⑮
☆ 寛政十年(1798)
◯『四季交加』「檀(ママ)画 北尾紅翠斎」山東窟京伝子讃 鶴屋喜右衛門板 ①
☆ 享和元年(1800)
◯『画本武王軍談』「東都檀(ママ)画 北尾紅翠斎」曲亭馬琴作 鶴屋板 ①
☆ 文化七年(1810)
◯『阥阦(おんよう)妹背山』六巻(国文学研究資料館・日本古典籍総合目録データベース画像)
「江都本荘両国橋辺隠士 縦画生 葛飾北斎〔亀手蛇足〕印」振鷺亭主人作 石渡利助板
◯『近世花押譜』(三村竹清著・昭和七年(1932)九月刊)
(『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(1)・青裳堂・昭和57年刊)
〝北尾紅翠斎檀(ママ)画
京伝作重政画四季交加奥付に
檀画 北尾紅翠斎
寛政十歳戊午春正月 御江戸常磐橋御門本町筋下ル八丁目 通油町鶴屋喜右衛門梓
とあり、檀画といふ事分明ならず。尚ほ此書には、岩瀬田層字日重屋山東窟珊洞散士京伝な
どゝ見へたり〟
※ 以下は国際浮世絵学会編『浮世絵大事典』の「擅画」の項に館主が書いた記事とほぼ同じです
〈大正五~六年(1916-7)頃、この見慣れない肩書きに関して、研究誌『浮世絵』を中心にさまざまな考証・検討が飛び
交った。当初は字義不明としながらも、「檀画」とは「檀郎画(だんろうが)の略」(「檀郎」とは「遊冶郎(ゆうやろう
・酒色にふける男)」の意味)ではないのか、あるいは中国で彩色画のことを檀画と称したのではないのかなどといった
仮説も出された。
しかし結局のところ「擅画」の表記が正しく、「檀画」とあるのは北尾重政自身の校正を経ない筆耕の誤りであろうとい
う結論に落ち着いた。そして「擅画」の字義については文字通り「擅(ほしいまま)に画く」という意味であるとされた。
またこの表記には、自らは伝統的画法に拠らない自己流の絵師だという謙遜の気持ちと、伝統や粉本に束縛されない独立
独歩の誇りとが込められており、いわば浮世絵師・北尾辰宣と北尾重政の伝統絵画に対する敬意と対抗意識がそこに現れ
ているのではないかという解釈も、漆山天童・星野朝陽両氏によってなされた。(漆山天童「檀画に非ず擅画なり」『日
本及日本人』691号 1916年。星野朝陽「擅画に就きて」『浮世絵』20号-24号 1917年)
なお北尾重政には「東都擅画 北尾紅翠齋図」(「隅田川渡舟図」東京国立博物館所蔵)のように肉筆 作品の用例もあ
り、必ずしも版本のみの使用とは限らないことも報告されている。「擅画」の使用は大坂の北尾辰宣が先で、それを江戸
の北尾重政が倣ったことは明らかである。辰宣の初出は寛延元年(1748)の『絵本小倉塵』と思われ、重政の初出は明和
五年(1768)の『絵本藻塩草』とされる。重政が辰宣に私淑したことは確かだが、奇しくも同じ北尾を名乗る東西の両者
がなぜこのような肩書きを使用したのか、よく分からない。
また「擅画」とよく似た用例に「縦画」がある。これは勝川春章が使用したもので、「江都縦画生 旭朗井勝春章図」な
どの例がある。天明七年(1787)の『絵本義経一代実記』などにその用例が見られるが、これも「縦(ほしいまま)画く」
という意味で「擅画」と同義。春章が重政の「擅画」を意識したものであることは明白だが、これもまたどういう意図が
あって春章が使用したものか明確ではない〉