◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊
◇「小赤壁の風致没落 清親画伯のお茶の水夜話」p195
〝根岸の里に鴬の初音、向島の田圃に初蛙の俳昧、そんな風流がいまどき通用せぬこと申すまでもないが、
明治の中期以後、これらの風致区がどしどし滅却、文化の余勢とはいえいささか惜しい。
なかんずく市内屈指の勝景といわれたお茶の水、これはほとんど最後であったが甲武鉄道が飯田町へ乗
り込んで間もなく、破壊の手がお茶の水へ延びたのは二十八、九年頃。両岸の絶壁は鬱蒼たる老樹の緑、
神田川の間を貫いて、市中とは思われぬ幽邃(ユウスイ)気分、詩人はこぞって「小赤壁」と呼んだくらい。
春は若葉、夏は緑蔭、月にも雪にも申し分なき絶好の眺め、水流も今よりはずっと清く、ゴミ船などは
通らなかったので、折々文人らしい舟遊びの客もあつた。
そのうち工事が始まって惜し気もなく樹木の伐採、絶壁の切崩し、ああ時世なるかなと思ったが、一、
二年後にはお茶の水駅を終点に汽車の開通、小赤壁もこれで形なし。
ついでに画伯小林清親に聞いたお茶の水夜話、「全くさびしい所でね、僕の青年時代、御一新少し前の
話だが、夜は辻斬りが出るという噂、そのころ僕は下町に用があって遅くなり、夜に入つて帰宅の途中
がお茶の水、宵ながら人足絶えて真の闇、びくびくものでようやく中ほどを過ぎた元町辺、ふと見ると
向うに人影、闇に透かすと屈強の侍姿に、ハッと思ったのは例の噂、血気の僕もいささかぞっとする。
しかしこっちも武士の卵、小(チイ)さ刀に手なかけてこわごわながら近づくと、先も刀を押えて用心腰、
いよいよ双方すれ違う途端、急に恐ろしくなって僕はパッと逃げ出す。同時に相手も一目散、これで物
別れは飛んだ辻斬りさ」と、話は少々漫画式だが、明治になっても久しい間、この辺一帯、闇の夜道は
無気昧であった〟
〈幕末から明治初年にかけての物騒な時代、夜更けの疑心暗鬼、頻りに出没する辻斬りかと思って、双方、出遭うや否
や一目散に逃げ出す話である。これと似た話は福沢諭吉にもあるから、福沢のいう「臆病者」の出会いが随分あちこ
ちで起こっていたものとみえる。因みに清親のお茶の水に対して、福沢は新橋。『福翁自伝』「暗殺の心配」〉