Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ せきが 席画浮世絵事典
 ☆ 享和三年(1803)    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧351(享和三年閏一月十九日明記)  〝名和氏にて、北斎をむかへて席画あり。山道高彦なども来れり。島氏の女、ならびに赤坂の歌妓お久米    来れり〟    〈名和氏は「細推物理」に頻出、遊山や酒宴での交遊が多い。山道高彦は狂歌名で山口彦三郎という田安家臣、馬蘭亭     とも称した。南畝とは天明初年以来の交渉がある。この頃、馬蘭亭での狂歌会は毎月二十五日に行われており、南畝     もよく参加していた。「島氏の女」は島田お香と言い南畝の妾とされる人。そして赤坂の芸者。この席画は賑やかな     こと、芸者の三絃付きであった〉    ◯『細推物理』〔南畝〕⑧359(享和三年三月十五日明記)  (竹垣柳塘の亀沢町別荘にて)  〝烏亭焉馬はとくより別荘にして、北斎をもよびて席画あり〟    〈竹垣柳塘は幕臣、南畝とは古書画等で同好の士。烏亭焉馬とも南畝は大変親密であった。この頃の北斎、生活の糧の     中にはこのような席画もあったのであろうか〉  ◯『細推物理』⑧386(享和三年八月十四日明記)  〝(南畝の)南隣の中川氏の約におもむく。鍬形紹真来りて、略画をゑがく。中川修理太夫殿の臣何がし、    郡山の臣何がしなど相客なり〟    〈いわゆる席画のようである。何を画いたか記述なし。また南畝が画賛を行ったかどうかも記述がない〉    ☆ 文化元年(1804)    ◯『一話一言 巻四十一』〔南畝〕⑭595(文化一年四月十三日明記)  (文化元年四月十三日、護国寺境内において、北斎は巨大な達磨の半身像を画いた。その様子を中村文蔵    という人が書き留めていた。南畝はそれを書写したのである。中村文蔵(子寅)は文晁の項参照)
 〝北斎画大達磨紀事  文化甲子三月、護国寺観音大士、啓龕縦人瞻拝、士女雲集、率無虚日、四月十三日、画人北斎、就其堂    側之地、画半身達磨、接紙為巨幅、下鋪烏麦稭、以襯紙底、紙大百二十筵、画者攘臂褰裳、縦横斡旋、    意之所向筆亦随之、蓋胸中已有成局、不持擬議而為也、画成、観者環立、嘖々賞歎、然唯見一班、未能    尽其情状、登座堂俯瞰、所見始全、口大如弓、眼中可坐一人、其所用、四斗酒榼一、銅盆二、皆以貯墨、    水桶一、以貯水、為筆者凡六、而藁箒居三、大者如罍、小者如瓶、棕箒二、地膚箒一、皆以代筆     右中村文蔵所記〟    (書き下し文)    〝文化甲子三月、護国寺の観音大士、龕(ガン=厨子)を啓(ヒラ)きて人の瞻拝を縦(ユル)す、士女雲集して、率(オホム)ね虚日無し、    四月十三日、画人北斎、其の堂の側に就きて、半身の達磨を画く、紙を接ぎて巨幅と為し、下に烏麦の稭(ワラ)を鋪(シ)き、    以て紙底に襯(ホドコ)す、紙大百二十筵、画者臂を攘(ハラ)ひ裳を褰(カラ)げて、縦横に斡旋し、意の向ふ所筆亦之に随ふ、    蓋し胸中已に成局(完成形?)有り、擬議を待たずして為すや、画成る、観る者還た立ち、嘖々と賞歎す、然るに唯一斑    を見て、未だ能く其の情状を尽くさず、堂に登り俯瞰して、見る所始めて全たし、口大にして弓の如し、眼中可坐一人、    其の用ゆる所、四斗酒榼(樽)一、銅盆二、皆以て墨を貯(タクハ)ふ、水桶一、以て水を貯ふ、筆と為すは凡そ六、而藁帚居    三、大なるは罍(ライ=酒樽)の如く、小なるは瓶(ヘイ)の如し、棕帚二、地膚帚一、皆以て筆に代ふ〟    ◯『増訂武江年表』2p30(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化元年」)   〝三月より護国寺観世音開帳あり。四月十三日画人北斎本堂の側に於いて、百二十畳敷の継紙へ半身の達    磨を画く〟     ☆ 文化九年(1812)  ◯「書簡 202」〔南畝〕⑲259(文化九年八月四日付)  (牛込御門外薬屋、亀屋勘兵衛(壺天主人)宛)   〝只今画工国貞来談候間、席画をたのみ罷在候〟    〈この席画は実現したのであろうが、その後の消息記事は見当たらない〉  ☆ 文化十二年(1815)  ◯『六々集』〔南畝〕②232(文化十二年二月下旬記)  〝春雨宴柳花苑狂歌并序   (前略)今日こヽにあつまりて、酒をのむものはたそ、文蝶北馬の画にたくみなる人、伊勢伝福甚の興    にのる人、詩は五山、役者は杜若と、世にきこえたる駿河町の名妓になんありける  春雨にぬるヽとかつはしりながらおりたつ脛のしろきをぞみる  雨ふれば柳の糸の長々と長さかもりもかつはうれしき〟    〈新橋の料亭柳花苑(いづ喜)での席画。文蝶は未詳。伊勢伝は新橋住の知人。福甚も未詳。駿河町の名妓とは前出     (栄之の項)のように、当時全盛を誇っていた芸者お勝〉  ☆ 文化十四年(1817)    ◯『北斎大画即書細図』高力種信著(飯島虚心著『葛飾北斎伝』岩波文庫本所収)    (文化十四年十月五日、名古屋における葛飾北斎の席画、大達磨半身像に関する記事。事前に頒布された    摺物および当日の様子)
   達磨の席画    ☆ 天保四年(1833)     ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③310(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝葛飾為一(中略)天保ノ今ニ至ル〟   〝生涯の面目は、画風公聴に達して、御成先に於て席画上覧度々あり、稀代の画法妙手といふべし〟  ☆ 嘉永六年(1853)  ◯『増訂武江年表』2p135(斎藤月岑著・明治十一年稿成る)   (「嘉永六年」記事)   〝六月二十四日、柳橋の西なる拍戸(リヨウリヤのルビ)河内半次郎が楼上にて、狂歌師梅の屋秣翁が催しける書    画会の席にて、浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、「水滸伝」の豪傑九紋龍史進憤怒の    像を画く。衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着色を施せり。其の闊達磊落を思ふべし〟    〈下掲『内外古今逸話文庫』記事参照〉  ◯『内外古今逸話文庫』6編 岸上操編 博文館 明治二十七年刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)※(かな)は原文の振り仮名   (第六編「文芸」の項)   〝歌川国芳浴衣を以て岩石を画く(9/410コマ)※(かな)は原文の振り仮名    嘉永六年、両国柳橋の河内屋にて、狂歌師梅の家鶴子狂歌画会の催しあり、其席にて一勇斎国芳、畳五    十畳敷に、水滸伝百八人の内、九紋龍史進を画けり、当日国芳大勢の門弟を取持かた/\連来り、おの    れを始め一同、真岡木綿白地に大絞りの浴衣の揃(そろひ)にて、扨画(ゑ)にかゝり、人物を認めおはり    て、九の龍を画き、雲のところは手拭の両端に藍と薄墨を浸し、これにて隅どり、それより浴衣を脱ぎ    て、磨(す)り置きたる墨の中へ入れ、よく/\墨を含ませ、史進が足を踏みかけたる岩石を画きけるに、    筆力勁健にして、おのづから凡ならず、一座どつと感嘆して、感嘆して、流石は当時江戸に名高き画工    なりと評判せしよし〟   〈絵の大きさ、上掲『武江年表』の「三十畳ほど」からこの「五十畳」へと話が大きくなっている〉  ☆ 年月不詳    ◯『わすれのこり』〔続燕石〕②125(四壁菴茂蔦著・安政元年?)   〝北斎大馬    本所合羽干場にて、せんくわ千枚つぎに墨画の大馬を画きたり、桟敷をかけて見せたり〟  ☆ 明治三年(1870)  ◯『暁斎画談』外篇 巻之下(河鍋暁斎画 植竹新出版 明治二十年(1887)   (国立国会図書館デジタルコレクション」( )は原文の読み仮名   〝暁斎氏乱酔狂筆を揮ひて捕縛せらる(門人梅亭鵞叟篇)    明治三年十月六日、東京下谷不忍弁才天の境内、割烹店林長吉(三河屋)方に於て、俳人其角堂雨雀    なる者、書画会を催したるに、暁斎氏は其飲酒連(のみなかま)なるを以て、席上の揮毫を頼まれ、朝    早くから書画の会莚に臨みしに、会主も頗(すこぶ)る乱酔の名を得し者故、未だ来客の顔も見ざる前    より、早(はや)盃を廻らし徳利の底を叩いて飲始めければ、人集り群々(むれむれ)を以て宴を開く頃    には既に三升余の酒を傾けたる故、暁斎氏は酔て泥の如くなると雖(いへど)も、氏に酒気あるは龍の    雲を得たるが如く、虎の風に遇(あへ)るに似たれば、身体(からだ)も愚弱(くにや)/\にて座に堪ら    れぬ程なれど、筆を持てば益(ます/\)活発にて奇々妙々なる物を書(かき)出(いだ)すを、人々興じ、    一扇書(かけ)ば茶碗を差し、一紙染れば丼を差し、代り/\に酒を進めて染筆を請ひければ、六升飲    (のん)だか七升飲だか、氏は鬼灯(ほうづき)提灯(てうちん)の如くになれども、筆を揮ひて屈せざり、    折りから傍らにて高声(かうせい)に噺(はな)す者あり、今日王子辺へ参りたるに、外国人一騎乗切り    にて来(きた)ると、茶屋の者出(いで)むかへ、今日は御一人なるかと問(とふ)と、馬鹿(ばか)を両人    召し連しよし答へたりと云(いふ)が耳に入り、彼等に笑(わらは)して遣(やら)んと思ひ、足長島(あ    しながじま)の人物に二人(にゝん)して沓(くつ)を履(はか)せ居(ゐ)る体を画き、又手長島(てながじ    ま)の人物が大仏の鼻毛を抜(ぬき)とる様(さま)を画きたりしに、画体(ぐわてい)高貴(かうき)の人    を嘲弄(てふろう)せしものと認(みとめ)られ、其座に於て官吏に捕えられしかば、席上の混雑騒動は    図に顕(あら)はせし如くなり、然れども此とき酔(ゑい)いよ/\甚(はなは)だ敷(しき)に至り、目は    動かせども、四辺(あたり)朦朧(もうろう)雲霧(くもきり)の中の如くにして、物の何たるを見分る事    能(あた)はず、口は開けども舌廻らざれば詞(ことば)を出(いだ)す事能はず、只(たゞ)踊りの身振り    して引かれ往き、終(つひ)に獄舎に下されたり、斯(かく)て漸く翌朝に至り酔(ゑい)醒(さめ)、その    事を聞て千悔万愧(せんくわいばんき)すれども詮業(せんすべ)なければ、只恐縮の外無かりし、同月    十五日、御呼出(おんよびいだ)しに成て、右の御糾(おんたゞ)し有たれども、何事を御尋ねあるも、    更に覚えなければ、他の御答は為(な)し難き由を述(のべ)、其日は御下(おんさげ)となり、再度(ふ    たゝび)禁錮させられたりしが、翌年正月三十日に至り、漸(やうや)く官の放免を請(うけ)て、晴天    白日を見る事を得たれば、忘れざる内にと思ひ、牢獄中の有様を図して我が二三の子弟に示し、且    (かつ)我が酒狂に乗ずるの戒めにも為さばやとて、書置たりことの物有しかば、其侭(そのまゝ)に出    して牢獄の中の苦しき様を記すに文章を以て贅せず、此二三の画図に附(つい)て見て、後世の戒めと    もならば氏が本懐ならんのみ〟  ☆ 明治十八年(1885)  ◯『東洋絵画叢誌』第十三集 明治十八年十二月刊(復刻版 ゆまに書房・1991刊)   〝嘗テ清水侯、浅草観世音ニ詣ルノ次デ、北斎ヲ伝法院ニ招キ揮毫ヲ需メシニ、北斎急ギ刷毛ヲ以テ藍水    ヲ紙上ニ抺シ、雞ヲ捕テ其足ヲ予メ溶スル所ノ朱碟中ニ浸シ、而テ之ヲ紙上ニ放ツニ鶏ノ踏ム所ロ、又    点々顕晦シテ恰モ流水楓葉ノ観ヲナス。輙チ頓首シテ曰、昰竜田川ノ景ナリト。侯大ニ悦ブ。又其大画    ニ至リテハ回向院庭上ニ於テ十八間ノ紙面ニ就テ一ノ布袋ヲ画キ、其小ナルモノニ至リテハ米粒上鳥雀    ヲ画ク等ノ筆アリ。或ハ方形ヲ集メテ人物トナシ、円形ヲ重ネテ花鳥トナシ、昰レ都テ学画ノ捷径ヲ示    スナリ〟    〈この席画、ここでは清水侯とあるが、下掲、本間光則編『浮世絵類考』や飯島虚心著『葛飾北斎伝』は十一代将軍家     斉としている〉  ☆ 明治十九年(1886)    ◯『香亭雅談』下p18(中根淑著・明治十九年刊)   ※半角(カタカナ)(漢字)は本HPが施したもの   〝一日某大族、国芳を携へ江西の川口楼に宴し、水神白髭等の諸勝を図せしむ。国芳先づ小紙を膝上に展    べ、景に対して匇匇鉤摸す、一妓有り、其の画工たるを知らず、傍らより此を調(アザケ)りて曰く、子も    亦た絵事を知るかと、国芳顧て曰く、咄這の豊面老婆、吾れ他日汝が為にその醜を掩はずと、妓未だ喩    (サト)らず、之を婢に問ふ、婢曰く、是れ画人国芳君なりと、妓吃驚して地に伏し謝を致す、闔坐(満座)    姍笑(嘲笑)す〟    〈傭書ならぬ、雇われカメラマンか。遊女を伴い浮世絵師をしたがえ、勝地を写生させるのも一興とする贅沢な宴席で     の挿話である。本文には中根の頭注があり、それによると「豊面」とはお多福の由である。「咄這の豊面」は「ちょ     つ!このお多福め」の意味か〉  ☆ 明治二十二年(1889)    ◯『浮世絵類考』(本間光則編・明治二十二年刊)   (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)   〝(北斎)生涯の面目は画風公聴に達して、御成先に於て席画上覧度々あり。稀代の画仙妙手を云べし。    往年、御成先上覧の節、大きなる紙に刷毛にて藍を長く引、鶏の両足(マナ)を画けり。朱にて鶏の足へつ    け、藍の上と(ママ)所々押形付◎の上竜田川の景に御座候と申上候よし、右写山翁の話也〟    〈岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏は、◎の字を「髟(カミガシラ)」+「首」と判読しているが、全体として     文意がいまひとつはっきりしない。写山楼は谷文晁〉    ☆ 明治二十六年(1889)    ◯『葛飾北斎伝』(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年刊)   (将軍上覧の席画p77)    〝時に徳川将軍家斉公【徳川十一世文恭院殿】北斎の妙技を聞き、放鷹の途次、写山楼文晁および葛飾北    斎を浅草伝法院に召して、席上画を画かしむ。文晁先づ画く、(将軍の鷹狩りに関する按記あり、略)    次ぎに北斎、将軍の前に出で、従容として、おそるゝ色なく、筆を揮って先づ花鳥山水を画く。左右感    嘆せざるものなし。後に長くつぎたる唐紙を横にし、刷毛(はけ)をもて長く藍を引き、さて携へたる    鶏を籠中より出だし、さらに捕へて、趾に朱肉をつけ、これを紙上に放ち、拝一拝して退きたり。人皆    其の奇巧に驚く。此の時写山楼傍(かたわら)にありて、下に汗を握りしと。【写山楼の話】〟    〈岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏よると「鶏の足に爪のあるところから、紙をそこねることが考え     られ、疑問視する説も近年出ている」とのこと〉  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『高名聞人/東京古跡志』(一名『古墓廼露』微笑小史大橋義著・明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション) ※(原文は漢字に振り仮名付だが、本HPは取捨選択。◎は不明文字)   〝或時両国万八楼の書画会に、国芳大酔興に乗じ、いで衆人を驚ろかしくれんと坐中の墨汁(すみ)を皆摺    鉢に集め、一(いつ)の大なる帚に浸し、満坐の客を廊下に退かしめ、数十畳の敷紙(しきかみ)へ水滸伝    中有名の事跡たる、花(くわ)和尚魯智深と九紋龍史進が、雪中奮闘の一大画を為せしかば、満場の喝采    暫しは已ざりしとぞ〟(20/119コマ)    〈国芳の席画記事としてよく知られているのは、嘉永六年六月二十四日に行われた梅の家秣翁(鶴子)の書画会における     パフォーマンス。斎藤月岑の『武江年表』によれば、国芳は畳三十畳ほどの渋紙に九紋龍史進の憤怒の像を画いたと     ある。然るに、この微笑小史の伝える挿話は、同じ両国柳橋でも河内屋ならぬ万八楼であるし、題材も同じく水滸伝     とはいえ九紋龍史進単独ではなく花和尚魯智深との「雪中奮闘」とあるから、別のものなのであろう〉  ◯「側面から観た浮世絵三名人-一勇斎国芳」樋口二葉著(『錦絵』第七号 大正六年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)((かな)は原文のルビ。(カナ)は本HPのルビ)   〝(国芳と三代豊国の席画)    河鍋暁斎翁が能く話して居たには、或日国芳(げんやだな)と豊国(かめゐど)の二人がある諸侯の席画に    招かれたが、国芳は例に依つてそんな窮屈な所は御免だと断つたけれど、何うしても断り切れないので、    渋々承知して出懸ける、豊国は真面目な人だから当時の画工(ゑかき)の服装、黒羽二重の紋附、同じ羽    織でリウとした服装で、弟子に絵の具函を持たせ 先生で済まして乗り越んだが、此方は例の縮緬の褞    袍(どてら)へ三尺帯を無造作にくる/\巻き。絵の具と筆を手拭ひに片端に括りつけ、ぶらり/\と提    げて出懸け 慇懃に一室に請じられる、直ぐ真平御免(まぴらごめん)ねえと胡坐(あぐら)をかいたので、    三太夫先生も之れには殆ど閉口し、其お服装(なり)では云へば、私(わつち)は服装で画は描かねえンだ    よ、之れで悪けりやァ幸(せいは)いだハイ左様ならと、逃げ支度に狼狽し漸く宥め賺(すか)し、三太夫    先生紋服を持出し無理に着せて席画を描かした事があるが、之れ等が国芳の面目が躍如した所だと云つ    て居る、随分遣(や)りさうな事で、彼の梅の屋が書画会を柳橋の河内屋で催した時、畳三十畳敷の大紙    へ水滸伝中の九紋龍史進を描いて、一座を驚かした折にも、門人等と大絞りの揃ひに浴衣を来て、最後    の史進の踏まえる巌石を描くに当り、自分に着てゐる浴衣を脱ぎ墨汁に浸して描くなどの奇抜を遣つた。    此会は嘉永六年六月廿八日だから 国芳が五十七歳の時で、猶この行為を遣つて居るを見ても元気思ふ    べしである〟  ◯『芸苑一夕話』下巻 市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(121/236コマ)     御前席画の離れ業     彼の画名は、啻(ただ)に市井の間に喧伝したのみでは無い、終には将軍家の耳にも入つた。或る時、    文恭院、放鷹の道すがら浅草の伝法院に立寄られた時、文晁北斎を召され、席画を所望された。文晁    先づ筆を揮つて得意の画を作り、愈々北斎の書く番となつた。北斎、憚る色もなく将軍の前に進み出で、    幾丈(いくぢやう)と云ふ長い絹を展(の)べて、一気に刷毛を以て長く藍を引いた。将軍を始め並居る面    々、何を書くのかと、不審に思つて居ると、北斎は座を退き、戸外に出たが、やがて鶏を入れたる籠を    携へ来つたので、皆々愈々不審に堪へず、何をするかと見て居ると、北斎、徐(おもむ)ろに籠より鶏を    出して、其の趾(あし)に朱肉をつけ、之を絹上に放つた。無心、鶏は、あちらこちらを歩き廻り、歩歩    赤い趾痕を印するのを、皆々、何の故とも気付かず、意外の事に、各々手に汗を握つて居たが、北斎は、    適宜と思ふ所で鶏を捕へて籠に納め、恭しく一礼した。座に在る文晁、早くも画意を覚り、立田川の風    景、洵(まこと)におもしろしと称へたので、皆々、初めて成る程と感じた。     北斎は町絵師ではあつたが、権貴を畏れぬ膽気(たんき)を有して居つた。当日斯る離れ業を遣つたの    も、彼れが膽気を示したものである。〈文恭院とは徳川幕府十一代将軍家斉〉  ◯『浮世絵と板画の研究』樋口二葉著 日本書誌学大系35 青裳堂書店 昭和五十八年刊    ※ 初出は『日本及日本人』229号-247号(昭和六年七月~七年四月)   「第一部 浮世絵の盛衰」「五 最大隆盛期」p36   〝書画会の席などでは浮世絵師は軽蔑されたものであるが、広重は席上画に長じ頗る妙所があつたので、    文人墨客も敬意を払ひ同等の交際を結んだと云ふにも、其の人格の高かったことも知れよう。又当時浮    世絵師の中で席画を画いたは、広重と玉蘭斎貞秀のみであつたとは泉竜亭是正といふ戯作者が能く話し    てゐた〟〈この広重は初代であろうか。泉竜亭是正は明治十年代前半の合巻作者〉