Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ せいかつびじゅつ 生活美術浮世絵事典
 ◯『明治の東京』「明治の生活美術寸言」岩波文庫p181(鏑木清方著・昭和三十七年九月記)   〝明治といっても、初、中、後、三期に分けると、一様にはいえない。    明治七、八年頃、『郵便報知新聞』、『東京日々新聞』などの記事に取材して、芳年、芳幾が写実の筆    を揮った錦絵が発行された。今のニュース映画というところだろうが、維新後の不安な世相を反映して、    これから推すと、生活に美術を求めるなど考えらるべくもなかった。    それが、十一年-十三年となると、同じ芳年の一枚絵でも美人画の組物が次々に出版され、婀娜たる風    俗が写されている。「東京料理頗別品」では、高名な会席茶屋の数々を写して、それに各地の名妓を配    したり、「美人七陽華」には宮中の女官を捉え、これに盛りの花を描いて妍を競うなど、世の安定を示    して余りある。    私が画人であるからか、明治の生活美術を語るに、まず、これら風俗画と、清親一派の風景画が最初に    思い泛(う)かぶ、清親はこれまでにも紹介されて人も知るが、その門人で惜しくも早世した、探景井上    安治は、師風から殆ど一歩も出ないようでいて、どこか広重に通じる私情と郷愁がしみじみ看者の心を    打つ。    生活美術に眼を注ぐと、住居につづいて床の間に懸けられる絵、家具、調度、服飾、装身具と亙るとこ    ろの限りを知らぬ。画と語るついでに掛物の画に及べば、古画は省いて、初期から中期には容斎、是真、    和亭、京都の楳嶺、雅邦、玉章、省亭を挙げよう。私たち年輩が知遇を享けた先輩は中期から後期にか    けて名を成された。なお、油絵が住居に目立って飾られたのはズッと後(おく)れる。    中期から始まった一般の会場芸術は、果たして生活に直結するものか否か、問題はあろう。(以下略)〟    〈清方は芳年の「東京料理頗(スコブル)別品(ベツピン)」や「美人七陽華」を「風俗画」とし、それを「生活美術」の分野     に組み込んでいる。清方のいう生活美術の範囲は甚だ広い。家屋内の生活調度品全体に及んでいる。さて、生活美術     と対比される「会場芸術」だが、これは展覧会場や美術館といった公共の場に展示される類をいうのであろう。こち     らをことさら「芸術」と称したのは、その会場が非日常的な空間であって、そこでもたらされる感興が日常を忘れさ     せるというか、日常を超えたものであったからなのであろう。清方は芳年の作品を風俗画と云い、浮世絵とは呼ばな     い。それには次のような事情があった〉  ◯『鏑木清方文集』第一巻「制作余談」(鏑木清方著・白鳳社・1979~80年刊)   ◇「私の経歴」①13(大正四年(1915)十二月)   〝浮世絵といはれるのが厭で社会画といふ    私は明治二十四年、十四歳の時に、水野年方の社中に入つた。其の頃の水野社中の研究法は、重に先生    の画かれた新聞の挿絵を写すのであつた。四年ばかり経つて、先生の板下絵に、模様を入れさせられる    やうになつたが、折々下手をやつて、板下を無駄にしたのを記憶して居る。    其の頃の風俗画家は、昔の浮世絵師と同じやうに仕立てられたから、唯頭が散切であるだけで、何の進    歩もして居なかつた。美術協会などから仲間はづれにされて、出品しやうとするものもなかつた。漸く    日本画会が創立されてから、初めて絹に画いて、公開の席に出陳するやうになつた。この時年方は『堀    川御所』を画いた。私達は浮世絵といはれるのが厭で、社会画といふ名を付けて自ら慰めて居た〟    〈世間は清方の作品を浮世絵に分類してそう呼ぶ。しかし清方自らはそれを嫌って「社会画」と称する。同様に「昔の浮     世絵師と同じやうに仕立てられ」た清方だが、自らを浮世絵師と呼ぶことには抵抗感があってあえて「風俗画家」と称     する。浮世絵の製作システム下の弟子でありながら、清方らはそのシステムとは距離を置いている。というよりむしろ     そのシステムの外に身を置こうとしている。清方らは本来このシステムの次世代を担うべく育てられたわけだが、この     時代(明治三十年代)になると、このシステム自体に新しい浮世絵を生み出す活力が衰えたこともあって、これから世     に出ようという若い絵師たちは、このシステムから出て自活する他なかったのである〉   ◇「そぞろごと」①87(昭和十年(1935)四月)   〝私が浮世絵と昔読んでゐた画系を引くので今も尚浮世絵派と元禄以来のとなへをそのままに呼ぶ人もあ    る。浮世絵派の中でも春章や清長などは好きだからさう呼ばれてもいやだとは云はないが、何か窮屈な    感じの伴ふのを否み難い〟    〈清方は「浮世絵派」と見なされることにかなりの抵抗感があったようだ〉