☆ 天保三年(1832)
◯『馬琴日記』巻三p12(天保三年正月九日記)
〝俳優板東三津五郎【六十余才】・瀬川菊之丞【三十余才】、旧冬十二月中死ス。今日三津五郎送葬、芝増
上寺地中某院のよし、見物群集ス。菊之丞ハ、明十日深川の菩提所へ送葬のよし、風聞あり。三津五郎ハ
借材(ママ)七八千両ありなどいふ。虚実ハしらねど、さもあるべし〟
「坂東三津五郎 瀬川菊之丞」一勇斎国芳画 山口屋板(東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)
〈両者をお半・長右衛門に見立てた一勇斎国芳の「死絵」をみると、〝天保二年極月廿七日 芝増上寺寺内常照院 行年
五十七才 板東三津五郎 同三年壬辰正月七日 本所押上大雲寺 行年三十二才 瀬川菊之丞 勇誉方阿哲芸信士〟と
ある。二人の死絵は他に国貞・国安・貞景画などが画いている。大変な売れゆきだったようで、馬琴も関心を示したが、
入手困難であった。三月二日、六日記事参照〉
◯『馬琴日記』第三巻p51(天保三年三月六日記)
〝(清右衛門)俳優三津五郎・菊之丞追善にしき絵、もはや西村や・森やにも無之、山口やニてハ蔵板のも
の残り居候よしニ付、不残、乞求候よしニて持参、請取畢〟
〈山口屋蔵板の死絵だとすると、正月九日で示した国芳のものであろうか。画像は同日にあり〉
◯『馬琴書翰集成』巻二p165(殿村篠斎宛、天保三年七月朔付書翰・書翰番号-38)
〝俳優坂東三津五郎、旧冬死去いたし、初春ハ瀬川菊之丞没し候。この肖面の追善にしき画、旧冬大晦日よ
り早春、以外流行いたし、処々ニて追々出板、正月夷講前迄ニ八十番余出板いたし、毎日二三万づゝうれ
捌ケ、凡惣板ニて三十六万枚うれ候。みな武家のおく向よりとりニ参り、如此ニ流行のよし、山口屋藤兵
衛のはなしニ御座候。前未聞の事ニ御座候。このにしき画におされ、よのつねの合巻・道中双六等、一向
うれず候よし。ヶ様ニはやり候へども、勢ひに任せ、あまりニ多くすり込候板元ハ、末に至り、二万三万
づゝうれ遣り候ニ付、多く(門+坐)ケ候ものも無之よしニ御座候。鶴や・泉市・西村抔、大問屋にてハ、
ヶ様之にしき絵ハほり不申、うけうりいたし候共、末ニ至り、いづれも二三百づゝ残り候を、反故同様に
田舎得意へうり候よしニ御座候。かゝる錦絵をめでたがる婦人ニ御座候。これニて、合巻類ハほねを折る
は無益といふ処を、御賢察可被下候。正月二日より白小袖ニて、腰に葬草(シキミのルビ)をさし候亡者のに
しき画、いまハしきものゝかくまでにうれ申とハ、実に意外之事ニて、呆れ候事ニ御座候。ヶ様之事を聞
候ニ付ても、弥合巻ハかく気がなくなり候也〟
〝右のにしきゑ、旧冬大晦日前よりうれ出し、正月廿日比までにて、後にハ一枚もうれずなり候よし〟
◯『馬琴書翰集成』巻二p172(小津桂窓宛、天保三年七月朔付書翰・書翰番号-40)
〝当早春、「俳優三津五郎・菊之丞追善のにしき画」、大流行いたし、八十余番出板いたし、凡三十五六万
枚うれ候ニ付、並合巻・道中双六などハ、それにおされ候て、例より捌ケあしく、小まへの板元ハ本残り、
困り候よし。死人の錦絵、正月二日比より同廿日比迄、三四十枚もうれ候とは、意外之事ニ御座候。多く
ハ右役者白むくニて、えりに数珠をかけ、腰にしきミ抔さし候、いまハしき図之処、早春かくのごとくう
れ候事、世上の婦女子の浮気なる事、是にて御さつし可被成候〟
〈記事は同年七月朔日のもの。正月二日頃から正月二十日頃にかけて、坂東三津五郎と瀬川菊之丞の死絵が
婦女子、特に武家の奥向きを中心に三十六万枚も売れたというのであるが、その余波が、購買層を同じく
する合巻や道中双六に及んだという、馬琴の見立てである。坂東三津五郎は天保二年十二月二十七日没、
享年五十七才。瀬川菊之丞は天保三年一月六日没、享年三十一才。二人の死絵は国貞・国安・国芳等が画
いている。馬琴が見たものは、白無垢、襟に数珠、腰に樒を差した図柄というが、誰の死絵であろうか。
ここでは一勇斎国芳と国安の死絵をあげておく〉
「坂東三津五郎 瀬川菊之丞」一勇斎国芳画(東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)
「坂東三津五郎 瀬川菊之丞」歌川国安画(東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)