☆ 安永四年(1775)
◯『明和誌』〔鼠璞〕中p195(青山白峰著・明和~文政迄の風俗記事)
〝此頃〈安永四年〉瀬戸物町に住居して、鳥山検校といふものあり、手びろく高利金をかし、至ての富豪
なり。よし原扇子屋抱の遊女花扇になじみ、大造におごりを極め、其上身請す。【松葉屋瀬川ナリ】
世上の人、はなし伝へにもしる処なり〟
〈鳥山検校の松葉屋瀬川身請けは安永四年(1775)〉
◯『半日閑話』〔南畝〕⑪395(大田南畝記・安永四年十二月記事)
〝吉原松葉屋瀬川といへる妓を鳥山検校請出せしと云事、当年の沙汰なり〟
☆ 天明二年~四年(1782~84)
◯『俗耳鼓吹』〔南畝〕⑩21(大田南畝記)
〝松葉屋瀬川、鳥山検校がうけ出せしより後、天明二年寅四月朔日、つき出し瀬川いできたり
竹村が蒸籠自ずから分明 松葉屋の中第一の名
検校昔時時金已に没し 瀬川今日水猶ほ清し
松ばやのちりうせもせぬ名をつき出しや瀬川の水にせいろうの山
となん口ずさみ侍りし。同三卯年秋、瀬川を後藤手代のものうけ出せしよし、千五百両をもて贖しといふ。
同四辰年四月朔日、瀬川出来る。コノモといふ禿なり。ウタヒメが禿なり
【欄外。天明八申年、瀬川ウケ出サル。主ハ松前公子文喬也。五百両也ト云、同四月朔日より、喜瀬川と
いへる出来る】〟
〈竹村は吉原の菓子屋竹村伊勢。「つき出し」は振袖新造から一人前の遊女になるときのお披露目、その際、茶屋や船宿
の前に竹村伊勢の蒸籠を積み重ねて祝う〉.
(『燕石十種』第三巻所収の『俗耳鼓吹』には「ウタヒメ」が「つたひめ」「喜瀬川」が「瀬川」とある)
☆ 天明七年(1787)
◯『松楼私語』〔南畝〕⑩9(大田南畝記・天明七年正月)
〝座鋪代 瀬川座敷四間 金壱両 松人(マツンド)其外は金壱分弐朱、部や持も新造のつくは壱分、外の部
屋持は弐朱也。五節に内証へやる也〟
〈金一両=金四分=十六朱〉
◯『松楼私語』〔南畝〕⑩109(大田南畝記・天明七年正月)
〝天明丙午元日蝕 四方山人
上下のひざから酒をかけはじめますますすすむ元日のしよく
おなじく二日の夜、瀬川の座敷に此歌を見て 幇間 長門万里【狂名 猿万里太夫】
元日の朝から客をかけはじめます/\すゝむ松葉屋のしよく〟
〈「しよく」は日蝕の「蝕」と、吉原の「お職(筆頭遊女)」の「職」を掛ける〉
◯「識語集」〔南畝〕⑲728(大田南畝記・天明八年?)
『傾城ケイ』の南畝書入れに“此妓従良為松前文喬君妾 後出奔走”