◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)
◇「やまと新聞と芳年」p32
〝「やまと新聞」は恐らく父の、相当練った腹案を実践に移したものであったろう。今この新聞を回顧
して見ると、そこには尠くも、三つの特色があったことは見遁せない。一世の名人円朝の創作人情噺を、
その頃漸く発達して来た速記術に依って毎日連載すること、次にはその頃全盛にあった巨匠月岡芳年が
円朝の挿絵を担当すること、もう一つは社長の採菊が小説、劇評、雑報に続いて筆を執ることであった。
父の奮闘は当然としても、円朝と芳年を独占出来る確信は、この新聞計画の大きな力であったに違いな
い。(中略)
創刊紙の続き物は、円朝の「松操美人生埋(マツノミサオビジンノイキウメ)」。採菊は「廓雀小稲出来秋(サトスズ
メコイナノデキアキ)」。四代目稲本(イナモト)楼の小稲と中野梧一とのことに取材したもので、この挿絵は芳年の
推薦に依って、まだ二十一歳の年方が画いた。挿絵は芳年一枚、年方二枚と覚えていたが、その一つは
どうしても思い出せなかったところ、「新聞集成明治編年史」を見ているうちにそれが塚原渋柿園の
「欲情新話」という花柳ものの現代小説であることが解った。年方のさし絵もそこに縮刷されてあった
が、その別項に左の記事が出ていた。「予(カネ)て各社の広告にて披露りしやまと新聞は昨七日を以つて
初号を初兌せり。印刷美麗にして記事中>三遊亭円朝子が得意の続き噺を、例の速記法にて書き取りしも
のをも登載し、仮名新聞中にては最上等の部類ならん。又た二号には一ヶ月極めの読者に限り芳年翁が
画きたる上摺の錦絵を景物として添ゆる由なり。東京日々、」とある。この錦絵は後年の新聞附録に見
る機械版のものなどと違って、少しも手を抜かない本物の立派な大錦で、その時自宅へ配達されて来た
ものが今に保存されているが、それは十九年十月から二十一年五月まで、毎月欠かさずに続いて二十枚
に及んでいる。恐らくそれが全部であろう。これは画く方も容易ならぬことだったろうが、新聞社とし
ても、いかに物価の安い時代でもこれまで続けられたことは、昔の人の辛抱強さを語るに足りよう。芳
年と云い、円朝と云い、採菊の古い友人関係だからとは云え、どれだけの待遇をしたものか知らないが、
よくも長いこと一つの新聞紙に、少しも変わることなく協力した、この人達の義理固さに感心される。
(中略)
新聞に出る円朝の人情話は、たいてい市内の静かな座敷で速記をする。少憩の間を隔(オ)いて、タッ
プリ二席を弁じる。挿絵をかく芳年をはじめ社内の重だった数人が聴くので、私もその席に列するのを
楽しみにした。時には木挽町の私の家で催されることもあった。私の昭和五年の作「三遊亭円朝像」は
その席の、遠い、併し鮮やかに残る印象を追ったもので、置かれた調度はどれも日頃見馴れた我が家の
品である。円朝の妙技に酔う聴き手の中に、容貌魁偉と形容されそうな、額の広い、眼の円(ツブ)らな
芳年翁がいつも胸高に腕組をして、傍眼も振らずに聴き入っている姿も忘れない。昭和二十五年の作
「芳年」はその記憶に拠ったものである。
私がこの人に会ったのはまで絵の稽古を始めないうちで、三味線堀の水が天王橋の下を潜り、須賀橋
を右曲して大川に注ぐ川添の、浮世絵最後の巨匠が住むにふさわしい家へ、尠くも二度は行ったことが
ある。一度は物好きを凝らした箱庭をつくるのに態々(ワザワザ)京都まで焼物を誂えたりして、これを庭
に陳べて大勢の客をした時母に連られて見に行ったのと、その後正月遊びに行って、刷り上って来た板
下(イタオロ)しの三枚続を自分で捲いて土産にくれた。その御浜御殿の海上、西瓜合戦の絵は、「やまと」
の錦絵附録と一緒に綴じて帖にして保存している〟
〈清方の父、條野採菊がが「やまと新聞」を創刊したのは明治十九年(1886)の十月。清方は明治11年生まれだから、数
えで十歳前後のエピソードである。円朝の人情話に腕を組んでじっと聞き入る芳年の姿、よほど印象深かったのであ
ろう、後年二人の肖像を描くにあたって真っ先に思い出されたのがこの光景であった〉
◯『鏑木清方文集』二「明治追懐」②81(鏑木清方著・大正五年(1916)一月)
「俤草」(「やまと新聞」に円朝の人情話が掲載された頃の一挿話である)
〝ある時新橋の寿鶴といふ鳥屋で、円朝翁の話の速記があつた。……円朝翁の人情話は、「やまと新聞」
の呼物でその速記はいつもお茶屋や私の家で開かれた、話の始まる前に若い御弟子の年方さんが度々叱
られて居るのを見ては恐い人だと思つた、話が始まると翁は柱へ背を凭せて瞑目して聴いて居る、悲し
いところへ来ると、大きな眼鏡の下から涙がポロ/\こぼれる、終(シマヒ)にはすゝり泣く声さへ聞へる、
名人の至芸、名人を泣かしめて出来る挿画の、よいものが出来たのは当然である。私に画を習ひません
かといはれた明治の浮世絵の巨人は、私がその下流を汲んで画を学ぶに至つたとも知らずに世を去られ
た〟
〈「やまと」新聞は明治21年5月をもって終刊。清方の年方入門は明治24年7月、芳年は明治25年6月逝去である〉
◯「円朝逸事」松林若円(三遊亭金馬『塩原多助後日譚』所収 三新堂 明治三十四(1901)年一月刊)
(明治三十三年八月十一日逝去 享年六十二)
〝辞世 聾(みゝし)ひて聞(きゝ)定(さだ)めける露(つゆ)の音(をと)〟
〈『塩原多助後日譚』の口絵〉
〝(円朝画の達磨像に「山中無暦日」の賛)
眼をとぢて聞さだめけり露の音
三遊亭円朝 自画自賛 鳳斎縮写〟
〈松林若円は耳、三遊亭金馬は目と、辞世の文言が異なっている。円朝の墓所である谷中の全生庵(臨済宗)では「耳しいて
聞きさだめけり露の音」としている〉