Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ さんのうまつり 山王祭浮世絵事典
 ☆ 文政五年(1822)    ◯『甲子夜話1』巻之十一 p194(松浦静山著・文政五年(1822)記)   〝隔年六月十五日の山王祭はいつも賑はしく、一国之人皆狂ふがごとしとは此時なるべし。今年四五歳計    りの女児を、父母撫愛の余り祭礼の中に加えへ、百花を飾たる籃輿に、錦繍雑色を交へたる蒲団を幾重    も敷き、其外種々の物もて荘飾し、児に美服を襲着(カサネキ)せ、蒲団の中に坐せしめ、終日街衢を通行せ    しむ。父母喜び且つ相言て曰、吾児人観てさぞ賞すべしと。三四日同じやうにして出行く。祭の前日に    至り、途中にて食を与ん迚立寄りて見れば、いつか息絶たり。炎暑の時重衣して熱中に晒しける故、蒸    死せしなり。父母の愚、推(オシ)知るべし。〈中略〉    其地の長どもよく/\愚者を暁(サトラ)しめ、異変なきやうにすべきことなり。尤歎ずべきは、軽賤の者    祭礼用意の衣服等の料に支(ツカ)ゆるとて、妻娘を妓に売こと頗る有と聞く。かゝる風俗を見捨置くは、    町役人の罪と謂ふべし〟  ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)   (ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝山王祭    山法師出るまつりにこゝろして加茂川ぞめのそろひきにけり    山王の御祭の日はことさらに御くらの衣裳目だつねりこら(練子等?)    酔しれてつきそふ人の顔までも猿によく似た山王まつり    山王のまつりに出すひきものゝ象も手馴れし鳶の仕事師    大象はねりいだせども人の数はかりしられぬ山王まつり    〈加茂川染め 大象の引きもの 鳶の仕事師〉  ◯『絵本風俗往来』菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※原文の「巣車(だし)」は「山車」に改めた。また読みやすくするため適宜送り仮名を補った   ◇上編 六月 山王祭(52/98コマ)   〝六月十五日、永田馬場日吉山王権現御祭礼なり、此の祭礼隔年にて、子・寅・辰・午・申・戌の年執行    あるなり、江戸御用祭とて祭礼中の巨擘なり、殊に文化文政の全盛は筆の及ぶ限りにあらず、此の書の    旨意、天保以後と定めしより(ママので)、以後の祭りを一筆にものし記せるより、江戸の盛事を示せるに    余地なく、唯其の一様を述んに、産子の町、南は芝口、西は麹町、東は霊岸島、小網町・堺町を限り、    北は神田に至る、祭礼山車(だし)の番組は四十五番とし、町の数は凡そ百六十丁余とす、此の町々十ヶ    年毎に年番といふに当るや、土地相応の賑はいをつくす、年番町は二三ヶ所づゝあるより、其の催しの    光景種々の思考(ママ)をつくせり、然(しか)るに往来の道路を繕ひ、小砂利をしきつめ、両側へ木を以て    間瀬(ませ)を構へ、間瀬に高張提灯を多く立て、家の軒は提灯をつらねて造花を指し幕をかけ、軒下は    青き丸竹の欄を出来(しゆつらい)、囃台を組み、神楽又は手踊りを催し、造り庭又酒樽・菓子・蒸籠・    魚の盤台・桶を屋根より高く積み飾り、上に茶船・荷足・天満船を載せ、造り花を出来、数百の提灯を    点ず、山車は小屋をかけて其の中に飾り、手踊の屋台、地走りの手踊り、町内の少女子は金棒引きに出    で立ち、地主家主は上布帷子・紗の袴に小刀を帯し、花笠をかむりて出で、又職人の親方などは肌ぬぎ    のはでをつくして、山車及び手踊りの屋台を警固してつらなること、年番町の例なりしも、土地により    全盛をつくせると、つくさざるの差あり、又山車年番といふあり、五年毎に当たる、山車年番は山車の    修繕、且つ新規作り直し、もし旧に変る所ある時は、町奉行へ願ふて後改む、是れ上覧に供するより、    如此(かくのごとき)重きを置きたり、年番町・山車年番に当らざる町々は、軒提灯・山車小屋斗(ばか    り)なり、大通り町は祭礼毎に年番町の如く町内を飾るものとす、山車の警固は先づ、第一金棒引き、    次に拍子木、次に女子の男仕立ての金棒引き、次に割り竹引き、次に町内若イ者、次に地主家主、次に    手子舞とて、祭礼の印半纏に打ち揃ふ鳶の者、多きは百人近く、少なきは二十人に下らず、次に山車、    次に茶湯の用意、次に腰掛けの牀几なり、昨十四日夕より今十五日夜まで、諸武家は出門を禁ぜらるゝ    より、町人の権勢実に盛なりし、天保御改革以後は、祭礼に無益の費(ついへ)をすること厳制なりしも、    木綿と偽り絹布縮緬をを用ひ、摺込(すりこみ)・摺画(すりゑ)模様と申し立て、金襴を用ゐたるもをか    しけれ、山車は牛二疋にて曳くあり三疋をつけるもあり    (以下、一~四十五番山車の町名および人形名と順行経路の記述あり、省略)〟    〈著者は「~より」を「~ので」や「~のため」の意味で使っている。「間瀬」は「籬垣マセガキ」、「思考」は「趣向」、「出来(しゆ     つらい)」は「設(しつら)え」の意味のようだ〉   ◇中編 六月 山王祭(36/133コマ)   〝(前略)神輿(みこし)の行列は諸大名の供奉相加はりしかば、至つて長列にして実に厳重といふべし、    十騎の法師武者の如きは勇ましくして、宇治の戦場もかくやと思はれける、祭り通行筋は一切往来の人    を止どめられ、又家々二階より見物を禁ぜらる、又道筋(とほりすぢ)御屋敷方は、邸宅長屋窓下へは多    くの足軽の士、袴羽織を着され六尺棒を突き立て居て、路上を警固し給はる、御物見窓には簾をたれ籠    めて、其の内には御縁辺の姫君及び相従ひ参らせける女中衆の見物あり、当日は武家は一切出門を禁ぜ    られけるまゝ、往々町人の体にて町家の店を借りて見物するなり、本祭りにあらざる年は、氏子町内、    軒提灯・囃子の屋台並びに作り庭・御酒(みき)所など出来て、引き出だせる山車の人形並びに幕を、町    内自身番又は店を借りて飾りたり、此の陰祭にても他の祭礼の数等上に出たる賑はひなり〟  ◯「八丁堀の暑中」原胤昭(『江戸文化』第二巻第六号 昭和三年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「山王祭礼」(7/34コマ)   〝(八丁堀与力・同心の警固役について解説 省略)神楽の練り歩るく道筋は、江戸真ン中の目貫き、麹    町から日本橋、神田、京橋の大通りを 町々南側の商店は青竹の手摺りに赤毛氈、金銀の屏風立て廻し、    家人客人綺羅を飾つて居並び、往還の男女は、人垣を造つて立つ、其の真ン中を山車や踊屋台や地走り    は出演人員多く、地べたで踊る群、それから最も一目を引く特選一つぶより芸者の鉄棒ひき、斯んな間    に挟まれる警固与力と云ふのだから、どうもウツカリした型では居られない。公儀の御威光に係はる、    八丁目堀の恥になると来るから、一番踏ンばらなきやならなかつた。     麻上下紋付帷子は云ふ迄もなく、大小の刀、腰に挟む提ケ物、緒〆め珊瑚の玉も目に立つもの、乗馬    の毛色も、馬具の金紋あざやかに、供廻りの物具、鎗の毛鞘も立派に飾り立つて出役した〟  ◯「古翁雑話」中村一之(かづゆき) 安政四年記(『江戸文化』第四巻三号 昭和五年(1930)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「山王・神田祭」(24/34コマ)   〝山王神田の祭礼は出し印の外に花万度一丁より幾つも出す 大きなるも小さきも有て 長き柱の様なる    木に牡丹其外の作花に縮緬の吹流しを付け 裸脱たる男これを高く指上(さしあ)げ持て行く 踊屋台は    出し印一本に一ッつゝ是非付くことなればその数夥し 囃子連中金銀の扇獅子へ緋紫さま/\の尾付た    るを冠る 店警固附祭は勝手次第 男女ともおもひ/\の衣類を着し出印に付出る 毎年祭礼は前後二    日ともに見物するに絶間なくて 殊の外にぎはしき物なりし 今にくらぶれば十分の一ともいふべし     其まへかたは両御番所へ引来りて 同所の門前に桟敷を懸け御組の男女行て見しとぞ 是は明和安永頃    までの事なれば聞伝へ也〟