Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ りゅうてい たねひこ 柳亭 種彦浮世絵事典
 ☆ 天保十三年(1842)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保十三年(1842)記)   ◇柳亭種彦逝去 p284   〝七月十九日    戯作者柳亭高谷(屋)種彦卒。    称彦四郎、号薪翁(足薪)、赤坂浄土寺ニ葬。      辞世 散るものに極る秋の柳かな〟
   「柳亭種彦肖像」国貞画(早稲田大学・古典籍総合データベース・岩本活東子撰『戯作六家撰』)     ◇出版関係者の処罰 p291   〝十月十六日  寺門五郎左衛門 号静軒。    一 江戸繁昌記作者、板本小伝馬町丁子屋平兵衛御咎メ、所構ニ而、大伝馬町二丁目ぇ引越ス。    一 田舎源氏作(者脱)柳亭種彦・小説(以下ママ)田舎源氏作者 為永春水・南仙笑杣人二世人情本作者、      右三人当時之人情を穿、風俗ニ拘候間、以来右様之戯作可為停止、叱り、板木取上ゲ焼捨也〟    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥145(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝(六月始め)絵草紙屋ニ芝居役者并遊女絵悉く停止、人情本と云中本の作者為永春水入牢、柳亭種彦    【高屋彦四郎】は頭【永井五右衛門】より呼出し、其方ニ柳亭種彦と云者差置候由、右之者戯作致事不    宜、早々外へ遣し相止させ可申と云渡たりとかや、春水が作は元より柳亭が田舎源氏など皆絶板と成、    【板本横山町鶴やハ元より家業難渋ニテ、源氏の草さうしを思ひ付て、柳亭を頼み作らせしが、幸に中    りを得て本手多く入て、段々つゞき出し售りければ、やゝ生活を得し処、其板を失ひ忽没落せり、柳亭    も此本の作料に利有て、元の住所より遥かによき家を求て移住、此節は大病後ニて、此事有て弥以わろ    く、遂に身まかれり】〟    〈「(六月始め)絵草紙屋ニ芝居役者并遊女絵悉く停止」とは六月四日の町触(本HP「浮世絵事典」の「う」項「浮世絵に     関する御触書」参照)「鶴や」は『偐紫田舎源氏』の板元で江戸地本問屋の名門・鶴屋喜右衛門。「其方ニ柳亭種彦と云     者差置候由、右之者戯作致事不宜、早々外へ遣し相止させ可申」という、小十人組頭永井の譴責、武士の情というべきな     のであろうか。最悪のお家断絶は免れた。しかし七月十七日、高屋彦四郎は種彦ともども死亡する。病死説・切腹説等あ     って不分明なところも残るが、この譴責が身に堪えたには違いない。人情本・好色本の一件が落着し、役者絵や遊女絵を     禁じる厳しい町触が出て、わずか一ヶ月後のことであった〉  ◯『馬琴日記』第四巻 p319(天保十三年六月廿六日付)   〝種彦事、小十人小普請高屋彦四郎殿、飯客に悪人有之。右一件に付、上り屋へ被遣、屋敷へは宅番つき    しといふ。昨日、関鉄蔵咄にて是を聞く。未だ不詳〟    〈下掲『著作堂雑記』にも同様の記事あり。「右一件」とは合巻『偐紫田舎源氏』の絶版処分を指す。作者柳亭種彦は高屋     彦四郎家の食客と見なされ揚げ屋入り、主人は蟄居、家には宅番がついたという噂である〉    ◯『馬琴日記』第四巻 p319(天保十三年八月七日付)   〝柳亭種彦、当七月下旬、二十七八頃病死のよし。今日泉市方にて噂有之(中略)田舎源氏の板、町奉行    所へ被召捕候日と同日也と云。「種彦、享年六十歳ばかりなるべし〟    〈泉市は地本問屋の泉屋市兵衛〉  ◯『著作堂雑記』(曲亭馬琴・天保十三年(1832)八月七日記)   ◇ 天保十三年(1832)八月七日記(259/275)   〝天保十三年寅六月、合巻絵草子田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門を町奉行え被召出、田舎源氏作者種彦へ作    料何程宛遣し候哉を、吟味与力を以御尋有之、其後右田舎源氏の板不残差出すべしと被仰付候、鶴屋は    近来渡世向弥不如意に成候故、田舎源氏三十九編迄の板は金主三ヶ所へ質入致置候間、辛くして請出し    則ち町奉行へ差出し候処、先づ上置候様被仰渡候て、裁許落着は未だ不有之候得ども、是又絶板なるべ    しと云風聞きこえ候、否や遺忘に備へん為に伝聞の侭記之、聞僻めたる事有べし、戯作者柳亭種彦は小    十人小普請高屋彦四郎是也、浅草堀田原辺武家之屋敷を借地す、【種彦初は下谷三味線堀に住居す、後    故ありて、其借地を去て、根岸に移ると云、吾其詳なることを不知】其身の拝領屋敷は本所小松川辺也、    此人今茲寅五六月の頃より罪あり、甚だ悪敷者を食客に置たりし連累にて、主人閉被籠宅番を被付しと    云風聞有之、事実未だ詳ならざれども、田舎源氏の事も此一件より御沙汰ありて、鶴屋喜右衛門を被召    出、右の板さへ被取上しなるべし、予寛政三年より戯墨を以て渡世に做す事こゝに五十三年也、然れ共    御咎を蒙りし事なく、絶板せられし物なきは大幸といふべし、然るに今茲より新板の草紙類御改正、前    條の如く厳重に被仰出候上は、恐れ慎て戯墨の筆を絶て余命を送る外なし、さらでも四ヶ年以前より老    眼衰耄して、執筆によしなくなりしかば、一昨年子の冬より、愚媳に代筆させて僅に事を便ずるのみ、    然れば此絶筆は吾最も願なれども、是より旦暮足らざるを憂とする者は家内婦女子の常懐也、吾後孫此    記閲する事あらば当時を思ふべし【壬寅八月七日記之、路代筆〔頭注〕路は翁の亡児琴嶺の婦】〟     〝天保十三年壬寅七月下旬柳亭種彦没す、廿七八日頃の事にて、田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門も召捕れて    町奉行え差出せし日と同日也と云ふ、種彦享年六十歳許なるべし、此事同年八月七日太郎吾使して芝神    明前へ行きし折、和泉屋市兵衛に聞て帰り来て吾に告る事如此〟     ◇ 天保十四年(1833)記(260/275)   〝ある人、柳亭種彦が辞世也とて予に吟じ聞かせける其発句      吾もまた五十帖を世のなごりかな    種彦この発句四時の詞なし、古人に雑の発句は稀也、ばせをに一句【歩行ならば杖つき坂を落馬かな】    支考に一句【歌書よりも軍書に高しよしの山】、只是のみ、況や辞世の発句に雑なるはあるべくもあら    ず、此れによりて是を観れば、種彦は前句などこそ其才はありけめ、俳諧を学びたる者にあらず、且享    年五十歳ならば五十帖も動きなけれども、只田舎源氏三十余編、いたく世に行れたるを自負の心のみな    らば、其識見の陋(イヤ)しきをしるべし、都て古人といへども辞世の詩歌発句などの妙なるは稀也、意ふ    に其人病苦に心神衰へながら、強て拈り出す故なるべし〟  ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)   ◇「夷曲同好筆者小伝」p444(昭和六年九月十六日記)   〝柳亭種彦 高屋彦四郎知久、住浅草堀田原、幕府旗下士、焉馬門人、号愛雀軒、諺紫楼、狂名柳風成、         天保十三年壬寅七月十三日【表向十九日】没、年六十、葬赤坂一木浄土寺、法号芳寛院殿勇         誉心禅居士〟  ◯『東京掃苔録』(藤波和子著・昭和十五年(1840)四月序 八木書店 昭和48年版)   〝荏原区 浄土寺墓地(戸越町四五一)浄土宗    柳亭種彦(戯作者)本名高屋知久、通称彦四郎、幕臣。その著「田舎源氏」は頗る傑作として、当時持    て囃され、京伝、馬琴と並称せらるゝ大家なり。その著九十種の多きに至る。その中に柳亭漫筆、還魂    紙料著名なり。天保十三年七月十九日没、年六十。芳寛院勇誉心禅居士。      辞世 散るものと定まる秋の柳かな〟