☆ 文化三年(1806)
◯「文化三丙寅年 御免 琉球人行列附」山城屋・松代屋板
琉球人行列附 画工未詳 (国書データベース画像)
◯『武江年表』文化三年記事
〝十一月 琉球人来聘、正使読谷王子、副使小禄親方(琉球人比喜親雲上(ぺーちん) 十二月二日終れり。
此年、関東わきて寒気はげしく雪尺に満つ。彼の国人は南方暖気の所に生れ、別して此の寒に傷はれた
り。殊に此の親雲上老年故終りしといふ。高輪大円寺へ葬送の時、いとゞあはれに見えしとぞ)〟
☆ 天保四年(1833)
◯『馬琴日記』巻三p310(天保四年正月十七日記事)
〝(女婿清右衛門)琉球人行烈(ママ)附かひ取、持参。右代三十二文〟
〈『武江年表』によると、琉球使節の江戸入りは天保3年11月16日、この日は江戸初雪「雪中管弦にて行列す」とある〉
☆ 嘉永三年(1850)<十一月>
◯『藤岡屋日記』第四巻(藤岡屋由蔵・嘉永三年十一月記事)
◇琉球人参府、番付一件 ④206
〝十一月、琉球人行列付、一件之事
北八丁堀鍛冶町新道
願人 品川屋久助
芝神明前
相手 若狭屋与市
右番附ハ、先年天保十三寅年十一月参府之節ハ、神明前丸屋甚八板元ニて英泉画出板致し候処ニ、此
度ハ同処若狭屋与市、薩州屋敷へ願ひ、重久画にて出板致し、十月晦日琉球人到着の日ニ御免ニ相成売
出し候処ニ、北八丁堀品川屋久助、京都幸町通り錦小路上ル菱屋弥兵衛願済の板行、延一枚摺番附を摺
出し、十一月二日より江戸中絵双紙屋其外へ配り候処ニ、三日より五日迄三日の間ニ、右久助配り候番
附を若狭屋より人を出し、残らず取上ゲ歩行也、右故ニ久助、若狭屋へ参り懸合候処、薩州留守居方よ
り手人を出し取上ゲ歩行候よし申候ニ付、久助、薩州屋敷へ参り、用人友野市助ニ付而、右一件相尋候
処ニ、此方屋敷ニ而は一向ニ左様之事無之由申候ニ付、夫より絵双紙懸り名主、白山前町衣笠房次郎・
京橋弓町渡辺源太郎・新両替町三丁目村田佐兵衛・麻布谷町米良太一郎方へ参り、右番附売出し願出候
処、若狭屋与市願済ニ候間、重板不相成候由申候ニ付、久助申候ハ重板ニ而ハ無之、京都ニ而願済ニ相
成候板ニ而、私板が正銘御免の板行ニて、与市板が贋物なり、薩州の改印と申候ハ謀判也、縦令本判ニ
も致せ、板元一軒と限り候は如何之事ニ候哉、既ニ天保十三寅年御改正之後ハ株式御取潰ニ而候処ニ、
右板元一軒ニ限り候得ば、株ニ御座候間、御改正之御触ハ反古同前也、私板行御差留ニ候ば、私義直ニ
御番所ぇ願ひ出候、右ニ付而は各々方御名前も書入相頼候間、苗字を書入苦しからず候哉、又ハ御免無
之候哉、承りたしとて理をつめ断りけり。
一 斯て十一月十九日、琉球人登城ニ付、右行列附売候者共大勢出候処ニ、若狭屋出板の行列附を持
候者ハ壱枚三枚続ニて三十六文と言也、廿四文ニ付候得共売らず、是ハ卸百文ニ五枚故也、然ル
処ニ脇ニ同様之番附を売り居候男ハ十六文宛ニ売候間、売れる事数知れず、若狭屋の売子是を見
て不思議ニ思ひ、卸五枚の物を十六文に売候てハ、肥前(ママ)四文宛損をして売ハ奇妙也、四文銭
三文(ママ)なれバ売れる筈なりとあきれて見て居る処へ、安売の男来り申候ハ、貴様ハ廿四文ニ付
けられてなぜ売らぬといへバ、四文しか口銭がないから売らぬと言、此男申ハ、おいらハ十六文
ニ売ても壱枚で十文宛口銭有、貴様ハ若狭やのを売が、其様な物を売て、此せちがらい世せかい
で妻子がすごせるものかと笑ひけれバ、此者肝を潰し、うそならんと言、うそなら其直段ニて如
何程も可売と言、私しハ若狭屋ニて五枚の割ニて今朝十把買込候由、右之男より二把買入、早速
に若狭へ参り、今朝仕入候番附を御返し申候由申候処ニ、是程仕入之参り候処ニ返し候ハ何故の
訳合ニ候哉と申候得バ、右之男申候ハ、私ハ三十六文と申候ニ、脇ニて十六文宛ニ売候ニ付、此
者計売れ、我等ハ一向ニ売不申候故、右男ニ相尋候処ニ、新右衛門町定斎屋の裏に紐庄と申者有
之、此者行列附を十六文ニ売出し候ニ付、十六文ニ売候ても十文の口銭有之由ニ付、右番付ニわ
(二把カ)買取候とて見せけれバ、若狭屋与市あきれて肝を潰しけり。
一 右重板ハ紐庄計ニあらず、都合七板ニて、本板若狭屋共〆八板也。右行列附、跡より出板之分ハ、
品川屋久助二板、紐庄二板、茶吉壱、唐がらし常一、大丸新道金兵衛、是ハ古板也、都合本板若
狭屋共八板也。
一 右重板ニ付、若狭与市より懸り名主渡辺源太郎宅へ久助を呼出し相尋候は、其方ハ若狭屋与市の
重板致し、横行ニ卸売致し候由、如何之義ニ候哉と相尋候処ニ、是ハ先日芝切通しニてならべ本
やの見世へ、板摺躰の男、右番附を凡壱〆計持参り、買呉候様申候得共、銭無之とて不買、然ル
処ニ私居合候ニ付、如何程にても宜敷候間、買呉候様申候ニ付、直段承り候処ニ金壱歩二朱也と
申候ニ付、代呂もの改見候処ニ、中ニやれも有之候間、是ハやれのはね出しニて候哉と相尋候処、
左様之由申候ニ付、左様ならバ反古の直段にて弐貫文ニて買取由申候処、右之者もて余し候体ニ
て早速売渡候ニ付、右之品仕立致し、百文ニ十六枚宛ニ売出し候由申聞き致し候得共、是真赤な
いつわりなり。
一 斯て十一月廿三日、八丁堀より向両国へ出候ならべ本屋新助方ニて、右行列附九枚を両人来りて
取上ル也、壱人ハ革羽織を着、壱人ハ職人躰ニて腹掛を致し居候由、名前相尋候処ニ、衣笠房次
郎召仕之由ニ候間、相渡候、渡辺源太郎・衣笠房次郎、絵双紙懸りにて行列附へ割印出せし名主
也、右故ニ源太郎宅ニて右番附之一件相尋候処ニ、分明なく割印先判が衣笠故ニ、白山へ可参由
申候ニ付、早々白山へ参候。
一 久助、衣笠へ参り相頼候ハ、頼(私カ)事今度琉球人御免之番附を売出し候処、若狭屋与市先板願
済之番附にて、私番附ハ重板之由御差留ニ候得共、私方が正銘の御免の板行ニて、与市板が贋物
也、御奉行所ニて御免之板行ニ各々方之改印ハいらず、御両人之改印有之候ハ是慥ニ贋物之証拠
なりと申候へバ、房次郎申候ハ、此方にて改候下絵ニハ、御免とハ無之、久助、乍憚拝見仕たし
と申ニ付、出し見せ候処ニ、是ニハ御免とハ無之、久助申候ハ、是偽り之贋物ニて、改絵にはヶ
様ニ致し売出し候番附は是也とて出し見せ候処ニ、是ニハ御免と書有之候。
一 右は若狭やニもあ(ママ)だかまりの落度有之、名主へ申分無之義ニ付、久助是を付込、重板を二枚
ニ致し大行ニ売出し候ニ付、又々懸り名主へ呼出し相尋候処ニ、此度ハ銀座にて壱〆たらず反古
の直ニて買取候由申わけ致し候得共、是も真赤な偽りなり。
但、晦日頃、京橋ニて壱〆半壱歩二朱ニて買取候よし、是も偽り也。
一 若狭屋ハ薩州屋敷、其外名主共へ多分之賄賂致、琉球人行列附を願ひおろし、〆売致候積りニて、
四文計懸り候者を、五枚ニ売出候処、重板七ッ出来致し十六枚ニ売出され、七十両計の損金致し
候よし。
十分に是で与市と思ひしにさて久助に灸をすへられ
久助、芝切通しニて行列の摺本を紙屑の直ニて買取候と偽り申けれバ、
久助もくずにハせずに銭もふけ
重板の名前の歌、
あの人ハ常々金兵衛もふけるから、随分重板もひも庄久しいものだとおちつひて茶吉で居
一 紐庄も若狭屋を贋ざれバ売れぬ故に、若松屋佐巾と致し候ニ付、
ふせた/\の若松佐巾(サハバ)、江戸へさかへて、板元のおめでたや
川柳
大井川下官も王の気で渡り
神無月晦日唐人まつを売
渡辺源太郎も久助ニハてこずりければ、
渡辺(の脱カ)手にも及ばぬ鬼のびら〟
「琉球人行列附」歌川重久画
(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
〈地本問屋の若狹屋与市、琉球人の江戸参府に合わせて「琉球人行列附」の独占販売を目論み、薩摩藩や草紙掛りの名主
に「多分」の賄賂を送って根回しをした。ところが案に相違、品川屋久助が京都の菱屋弥兵衛願済みの番付を売り始め
た。怒った若狹屋がこれを取り上げた。すると品川屋は急遽絵草紙掛りの名主に番付の販売許可を求めた。名主の判断
は、若狹屋板は既に願い済み、だから品川屋のものは重板に当たるとした。しかし納得しない品川屋は、京都板の方こ
そ「正銘御免」で、若狹屋板は贋物だと主張した。さらに、板元を一軒に限ってしまうのは、株を認めることと同じだ
から、天保十三年の株仲間解散令の主旨にさえ反するのではないかと訴えた。この品川屋久助、なかなかしたたかなの
である。結局、合計七板もの重板(無断複製)が出回ることになってしまった。そのせいで若狹屋はおよそ七十両ほど
の損金を出したという。若狹屋の小売り値段は一枚(三枚続)36文。卸値段は百文に五枚、即ち一枚20文。一方、品川
屋の小売値は16文(卸値が百文に十六枚で一枚約6文)。当然、若狹屋の売れ行きは宜しくない。なぜ安いのかと訊か
れた品川屋の言い分は次のようなものであった。この番付は芝の切り通しの露店に、板摺風の男が一〆(二千枚)金一
歩二朱(当時の銭相場、一両6200文で換算すると2325文)で持ち込んだもの。品物を見るとやれ(破れ=刷り損じ)だ
ったので、反古同様の値段なら買うと云ったら、それでもよいというので二貫文(2000文)で仕入れたと。また京橋では
一〆半を一歩二朱で手に入れたとも云う。しかしともに真っ赤な嘘であった。この騒動は筆禍ではなく犯罪であるが、
参考までのに取り上げた。なおこの「琉球人行列附」について、若狹屋は十月の段階で出版販売の許可申請を願い出て
いた〉
◯ 十月〔『嘉永撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p430〕
(芝三島町、板元若狭屋与市より出された「琉球人行列付出板売弘願」に対する、遠山・井戸両町奉行の
老中・松平伊賀守宛、伺書である)
〝 芝三島町 六兵衛店 与市
右之もの相願候は、此度琉球人参府仕候ニ付、右行列附絵図彫刻半紙三枚継墨摺並彩色入三編摺ニ致し、
両様共板行売弘度旨、願出候間、吟昧仕候処、兼て松平大隅守屋敷え出入仕、殊ニ同人家来よりも願之
通致し度旨申立、然ル処去ル寅年琉球人参府之砌、同町七左衛門店甚八後家ちせ後見平蔵外弐人より右
行列附墨摺並錦絵売弘願出伺之上、錦絵は差留、墨摺之分計り売弘申付候儀ニ御座候間、今般相願候彩
色入之儀も、乍聊手数相掛無益之儀ニ付差留、墨摺板行売弘之儀は願之通可申付哉、此段奉伺候
但琉球人参府之節、行列附板行願人有之節は、其度々伺之上板行売弘申付候儀ニ御座候〟
〈寅年とは天保十三(1842)年のこと。今回もその時と同様錦絵は認められず、墨摺のみ。町奉行がこの件で老中に伺い
を立てたのは、この出版には松平大隅守(薩摩の島津家)の家臣が関わっていたからであろう〉