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☆ 流行御利生けん(りゅうこうごりしょうけん)浮世絵事典
 ☆ 嘉永二年 <閏四月>      筆禍「流行御利生けん」一猛斎芳虎画・酒井屋平助板       内容 ◎版元酒井屋平助 絵双紙掛の名主の判断で板木の削除を命じられる       理由 浮説(打掛姿のお竹が本丸年寄の姉小路を擬えたという噂)が立ったため  ◯『藤岡屋日記 第三巻』p475(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)   「嘉永二己酉年 珍説集【正月より六月迄】」     〝嘉永二己酉年      翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画出るなり。    板元麹町湯島亀有町代地治兵衛店、酒井屋平助ニ而、芳虎が画也、但し右拳の絵は前ニ出せる処の図の    如くにして、名主村田左兵衛・米良太一郎の改割印出候へ共、はんじものにて、翁いなり、三途川の姥    婆さまハ別ニ替りし事も無之候へ共、馬込が下女のお竹女が根結の下ゲ髪にてうちかけ姿なり、是は当    時のきゝものにてはぶりの宜敷、御本丸御年寄姉小路殿なりと言い出せしより大評判ニ相成候故、上よ    り御手入れの無之内、掛り名主より右板をけづらせけり、尤是迄ニ出候処之絵、新宿の姥婆さま廿四番    出、外ニ本が二通り出ルなり、お竹の画凡十四五番出るなり、然ル処今度お竹のかいどりの画ニて六ヶ    敷相成、名主共相談致し、是より神仏の画ハ一向ニ改メ出スまじと相談致し、毎月廿五日大寄合之上ニ    て割印出すべしと相談相極メ候(以下、一猛斎芳虎の「【道外武者】御代の若餅」に関する記事は省略。    本HP「浮世絵事典」「御代の若餅」参照)     一 翁いなりと新宿の姥姿の相撲取組、翁ヶ嶽ニ三途川、行事粂の平内、年寄仁王・雷神・風神・四       本柱の左右ニ並居ル、相撲ハ皆々当時流行の神仏なり、是ハ当年伊勢太神宮御遷宮ニ付、江戸の       神仏集りて、金龍山境内ニて伊勢奉納の勧進相撲を相始メ候もの趣向ニて、当時流行の神仏ニハ、       成田山・金比羅・柳島妙見・甲子大黒・愛宕羅漢・閻魔・大島水天宮・笠森・堀ノ内・春日・天       王・神明・其外共、釈迦ヶ嶽、是ハ生月也。        成田山 大勇 象頭山 遠近山 築地川 割竹 関ヶ原 筆の海 有馬山 三ッ柏 堀之内       猪王山 柏手 初馬 綿の山 注連縄 翁ヶ嶽 剱ノ山 経ヶ嶽 於竹山 錦画 御神木 三途       川 死出山、行事長守平内、年寄仁王山雷門太夫・大手風北郎・おひねりの紙、お清メ水有、行       事・呼出し奴居ル、見物大勢居ル也。        此画、伊予政一枚摺ニて、袋ニ手遊びの狐・馬・かいどりの姉さまを画、軍配ニ神仏力くらべ       と表題し、外に格別の趣向も無之様子ニ候へ共、取組の内ニ遠近山ニ三ッ柏と画たり、是は両町       奉行の苗字なるべし、割竹ニ猪王山と云しハ御鹿狩なるべし、外ニうたがわしき思入も有之間敷       候得共、右之はんじものニて人の心をまよわせ、色々と判断致し候より此画大評判ニてうれ候処       ニ、是も間もなく絵をつるす事ならず、評判故ニ引込せ仕舞也。         お竹のうちかけ姿を見て         遅道           かいどりを着たで姉御とうやまわれ         三途川の老婆御手入ニ付、           新宿は手がはいれども両国の             かたいお竹はゆびもはいらず           老ひの身の手を入られて恥かしや             閻魔のまへゝなんとせふづか         両国の開帳           お竹さんいもじがきれて御開帳             六十日は丸でふりつび〟
    「流行御利生けん」(翁稲荷、新宿の老婆、於竹、三人拳の画) 道外一猛斎芳虎画     (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)       〈三人拳は酒席の座興として以前から行われていたが、嘉永元年正月、河原崎座において、中村歌右衛門・市川九蔵・     松本錦昇(幸四郎)の三人が「とてつる拳」を演じたのが大当たりとなって、大流行した。この一猛斎芳虎画の「流     行御利生けん」もそれに便乗した制作である。ただこのころの錦絵は、様々な禁制や制約を楯にとって「うたがわし     き思入」の有るものや「人の心をまよわせ、色々と判断」できるような「はんじもの」がとかく評判をとるというの     で、翁稲荷・新宿の老婆・下女のお竹という組み合わせのほかに、更に一層の趣向を凝らし、お竹を「下げ髪にてう     ちかけ姿」にした。(これはそもそも下女の出で立ちではない。またお竹には大日如来の化身というイメージもある     が、それでもこの身なりはありえない)それがさまざま憶測を呼んだ。なかでも出色なのは、お竹は大奥の上臈御年     寄・姉小路(あねがこうじ)を擬えたのではないかという浮説。ほかならぬ幕府の中枢に拘わる風評である。早速、     この錦絵の改(アラタメ)を通した名主たちが動いた。彼等にとってこれは想定外のことだったには違いないが、このまま     放置してはますます難しい事態になることは必定。そこで名主たちは、町奉行が摘発する前に、急遽版元に命じて板     木を削せ、沈静化を図ったのである〉