Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ りょうごく 両国浮世絵事典
 ◯『娯息斎詩文集』(闇雲先生作 当筒房 明和七年(1770)刊)   (新日本古典藉総合データベース画像)   ◇江戸の繁華   〝東都(とうど)の曲    (前後省略)    両国橋長(なが)ふして侲僮(かるわざ)賑わい   猪牙舟(ちよきぶね)迅(はや)ふして遊人通ふ    屋舩(やねぶね)強飲(ぐいのみ)略語(しやれ)遊び 下撫本田(したなでほんだ)自(おのづか)ら風流〟   ◇江戸四季の遊び   〝両国橋の納涼(すずみ)    風涼しうして向つては晩に栄ふ 玉屋の花火星を焦がして明らか    如斯(こんな)納涼(すずみ)が何ぞ唐(から)にも在らんや 楼舩(やかた)の長歌河に響いて清し〟  ◯『甲子夜話2』巻之二十四 p91(松浦静山著・文政五年(1822)記)   〝世の有様は今と昔とは替るものなり。予十歳頃より十八九ばかり迄は、両国の納涼に往き、或は彼の辺    を通行せしに、川中に泛(ウカベ)る舟いく艘と云数しらず。大は屋形船、小は屋根舟、其余平(ヒラ)た船、    似たり舟抔(ナド)も云ふも数しらず。或は侯家の夫人女伴花の如く、懸燈は珠を連ねたるが如き船数十    艘、この余弦管、闘拳、倡哥、戯舞に非ざるは無し。故に水色燈光に映じて繁盛甚し。この間に往々一    小舟ありて、大なる鼓を置き、節操もなく漫に累撾し、その喧噪云ばかりなし。この舟必ず弦詠、謡曲、    或は倡舞する船の傍に到て鼓を打て大叫す。止ことを得ずして金銭を与へて退かしむ。鼓舟これを受け    乃退て、又隣船の傍に至て然(シ)かす。隣船も亦この如くす。或は金を得ること少なければ退かず。遂    に数金を獲(ウル)に至る。世これをあやかし舟と呼(ヨビ)き。寛政に諸般改正せられてより風俗一変し、    この舟絶てなくなりぬ。今三十余年を過て、世風寛政の頃とも大に違へども、彼舟などは昔にかへるこ    となく、今知人も稀なり。又両国川のさまも、屋形船は稀に二三艘、屋根舟も処処往来すれども、多く    は寂然、僅に弦哥するも有るか無きかなり。たま/\屋形船の懸燈は川水を照せども、多くは無声のみ。    年老たるは悲むべけれども、昔の盛なるを回想するに、かゝる時にも逢しよと思へば、又心中の楽事は    今人に優るべき歟、如何〟    〈松浦静山は宝暦十年(1760)生。その十代といえば安永期(1772~81)に当たるが、これは寛政改革の前、天明期(17     81~89)までの両国辺の光景といえよう〉  ◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)   (ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉   〝両国    虫籠の舟もつなぎて商人のほたるはな火もあぐる両国    神事舞余念なく見るそのうちに夕日もはやくめぐる両国    涼しさは手もぬらさずに両国のはしの袂へ入るゝ川風    軽わざの小家のかゝりし両国にかすみの糸をわたる三日月    両国にたつ花市にになひ来て萩に水かふ駒止のはし    両こくの川を見はらす講釈も水のながるゝごとき弁舌    目に見えぬ秋やかよはん両こくの川に荻江のさわぐすゞ風    軽わざの妹がくも舞見に行かんかねてしらせの京わたりとて    もの日をばあてゝ客待矢場女的ははづさぬむかふ両ごく    落さうな時雨の空のあふなさにかさもて綱を渡る軽わざ    からくりの花火見んとて見物の一ッ目までものぞきあゆめり    見せものも所あらそふ蝸牛角の上なるふた国のはし(拾遺)    めじるしにすねはきれども膏薬におのが命をつなぐ辻うり(画賛)②37/56コマ〟    〈花火 納涼舟 講釈 軽業(くも舞・綱渡り) 矢場女〉   〝花火    両国は軽わざのみかからくりの花火もやはりつなわたりしつ    朝㒵の花火を夜ことあげさせてさかり久しき両こくの茶屋(画賛)〟    ◯『藤岡屋日記 第三巻』p77(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記)  〝七月、新板伊予節葉うた 両国橋夜見世八景   これは両国盛り場の名寄、咄講釈、浄るり万作踊りに子供芝居や操り人形、軽業師や子供新内、たま遊び、   楊弓茶見世に花火船、つづいてかげ芝居、さつても賑ふ夕すゞみ、江戸の花〟    ◯『五月雨草紙』〔新燕石〕③15 (喜多村香城・慶応四年(1868)記)   (寛政改革以前の両国の花火光景)   〝毎年五月廿八日を期して、揚初と唱へ、江戸川々の屋形舟、屋根舟はいふに及ばず、其外大小の舟々、    橋の南北の工下に密比して、左ながら大陸の如く、又、橋上には見物の人々、未だ夕ならざる頃より詰    掛けて、進むもならず、退もならず、両岸の涼棚、茶榻は、所狭き迄に張り連ね、往来は押し合ひへし    合ひて、殆んど人の山をなす、されば、最寄酒肆、茶店の込み合、押て知るべし、偖、此揚初の済む後    は、御三卿方の花火、諸侯方の花火とて、今日もあり、あすもと引続き、川縁りに邸宅ある家には、百    金も二百金も一刻の花火に費して、共宴を催す事なれば、玉屋、鍵屋の二商、此に共時を得て、喝采の    声と共に巨利を得しなり、(玉屋は、慎廟日光御社参の御留守中、火の元別て念入る可しの命を粗略に    し、自火を出したる罪を以て、居所を逐れたれば、他所に移りて業を営みしが、皆再び顧る者なきより、    終に断て他業に遷れり)〟    〈この日光社参は天保14年(1843)で将軍は徳川家慶〉