◯『甲子夜話1』巻之二 p26(松浦静山著・文政四年(1821)記)
〝白川老侯御補佐の時は、近代の善政と称す。何者か作けん、世に一首の歌を唱(ウタフ)、
どこまでもかゆき所に行とゞく 徳ある君の孫の手なれば
此時、武家の面々へ、尤文武を励されければ、太(ママ)田直次郎〔世に呼て寝惚先生と云。狂歌の名を四
方の赤良と云へり〕といへる御徒士(オカチ)の口ずさみける歌は、
世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)といふて夜もねられず
時人もてはやしければ、組頭聞つけ、御時節を憚(ハバカラ)ざることとて、御徒士頭に申達し、呼出して
尋(タヅネ)ありければ、答申には、何も所存は無御坐候。不斗口ずさみ候迄に候。強て御尋とならば天の
命ずる所なるべしと言ければ咲(ワラヒ)て止けるとぞ〟
〈松平定信の改革を皮肉った落首。世間では大田南畝(寝惚先生)の詠と噂が立っていた〉
◯『一話一言 補遺参考篇2』〔南畝〕⑯206(大田南畝著・寛政期)
〝(南畝『野翁物語』から三条を抄録。その中に「流行落書之事」として次の行を記す)
此落書は文の道に心あるものゝ作にもあらねば、取べき見所もなしといへども、移り行世のかたり伝る
便りなきにしもあらず。よりてその心をとりてこゝに記しぬ。牛込大田直次郎が戯歌
世の中にか程うるさきものはなしぶんぶといふて身を責るなり
まがりても杓子は物をすくふなりすぐなよふでも潰すすりこぎ
孫の手のかゆひ所へとゞきすぎ足のうらまでかきさがす也
〈これに対して、南畝自身はこう弁明している〉
是大田ノ戯歌ニアラズ偽作也。大田ノ戯歌ニ時ヲ誹リタル歌ナシ。落書体ヲ詠シハナシ。南畝自記〟