◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)巻之二十八「春時」④164
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
〝(「羽子板」に関する記述中)
押絵は、予幼年の頃より京坂にもあれありといへども、三都とも古き製にはあるべからず。顔および手
足その他、衣裳も襟・袖その他ともに、図に応じて各々別に厚紙をもつて裁製し、顔・手足には白羽二
重を粘(ネバ)し、墨をもつて髪および鼻白を描き、衣服・羽折・帯等、その人品に応じ、その所用に随
ひて、縞あるひは小紋、または無地の縮緬を専用とし、帯は錦の類を用ひ、図に応じてひだをとり、紙
と縮緬・錦等の間には、往々綿を納(イ)れて肉をつけ、縮めん等、紙形よりわづかに大にして、余りを
裏に折り返す。けだし惣じて紙形の表面に糊せず、余り裁(ギレ)を裏に折りたる分のみに粘す。故に真
に衣服を着せるごとく、はなはだ美なり〟
☆ 明治以前
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(【雑】は『雑俳語辞典』鈴木勝忠編・注は編者の注)
1 篦で押絵のふり付けを嫁 「もゝ手」文化2【雑】
2 ふつくりと押絵の裾の綿加減「から衣」天保11【雑】
3 押絵の小町傾城に似る 「種卸」 安政8【雑】注「綿をふくませた貼絵」
〈1・2は篦と使って絵柄を整える嫁の様子やふっくらとした感触を表現したと思われるが、3は小野小町と傾
城(遊女)とを配した句意が不明〉
◯『明治東京逸聞史』②p182「羽子板」明治三十八年(1905)(森銑三著・昭和44年(1969)刊)
〝羽子板〈東京朝日新聞三八・一二・二五〉
「羽子板の市況」という記事を載せているが、羽子板の押絵にも、時代の変遷がある。明治十六七年ま
では、押絵も平たく板に附いたのが喜ばれたが、十九年頃から次第に変って、盛上ったのが歓迎せられ
るようになった。顔絵師も、国周が去って、周政(後に国延)となったなどとしてある。国周、周延等
の浮世絵師は、錦絵の外に、羽子板の顔をも画いたのである〟
◯「読売新聞」(明治23年(1890)11月30日付)
◇押絵の景況
押絵の顔ハ一切画工国政の担当にて 夏秋の頃にありてハ 其(その)書き代(しろ)平均一個一厘五毛位
なるも 冬の初めより年の暮に至りてハ 上物即ち顔の長(た)け一寸より一寸五分までのもの一個に付
き三匁乃至(ないし)五匁なり。然るに今年ハ其の景気殊に悪(あし)く 目下の所にて一個漸く二匁なり
と云ふ〟
◇歌川派画工の専門
歌川派の画工にて 板下絵のみに関係し居(を)るもの 其の数数多(あまた)あれ共 目下一派の得意を
出(いだ)して その名世に聞えたるものを挙ぐれば 武者絵は芳年 似顔は国周 官女は周延 押絵は
国政 手遊画(おもちやゑ)は国利 新聞さし絵は年英 名所画は吟光 類似油絵は清親 見世物看板絵
は芳盛 芝居看板画は清満 年中行事絵は勝月 団扇絵は玉英と限りたるが如しとなり〟
◯「読売新聞」(明治25年(1892)9月16日記事)
〝外人古押絵を買込む
近頃押絵の大下落を来して 羽子板額面又は掛物等の押絵を作れる者頻りに困却し 昨冬の如きは断然
之を廃して 他の業に移れる者さへありしが 昨今東京・横浜・神戸・大坂等に押絵の騰貴せる摸様見
えて 当業者は遠く肥後・日向の地方に之を求むとは実に驚くべきの浮沈なり 然れ共是等当業者の求
めつゝある押絵は 既に東京の押絵師が匕(さぢ)を投げたるものにあらで 少(すくな)くも五十年以前
の古る押絵なり 元来押絵は浮世絵四川(せんママ)の画工が出だせる一種の新美術にて 同流の画工は皆
押絵の着け方をも教訓し 現に之を作りて業とする画工もある程なれば 其の下絵は勿論面相に至りて
は 一々画工自身の筆を下す所たる事 古今毫末の差ある事なし されば五十年前の古押絵には 豊国
・北斎・歌麿等の大家が自から筆を下せしものありて 其の趣味却って絵画にまさる所あれば 商売に
ぬけ目なき横浜・神戸の仏国人は 頻りに手を廻して此古押絵を買入るゝに 夫れと心附かぬ本邦人は
無暗に之を売り払ふより 最初一枚一円程の押絵 今は二十銭前後に下落したれば 此弱身に附け込む
商人 扨こそ九州地方にまで手を延ばして之を求むるなりと 北斎・歌麿の絵は一枚何十円の高価を有
し 其板刻せるものまた甚だ廉ならざれば 其手に成れる所の古押絵は少くも十円内外の実価なるべし
と云ふ〟