☆ 文政十年(1827)
◯『馬琴日記』第一巻「文政十年丁亥日記」五月十八日 ①109
〝(馬琴)同朋町ニて、肥後熊本矢部村牛股武左衛門大男図説二枚、途中ニてかい取畢〟
◯『馬琴日記』第一巻「文政十年丁亥日記」九月二日 ①182
〝蜀山人来ル。(中略)大空武左衛門写真大図、被為見。渡辺登写候をすき写候由。一枚写シ呉候様、被
為成御頼。則、紙・画之具料として、南鐐壱片被遣之〟
〈この蜀山人は二世亀屋文宝。渡辺崋山の原図を透き写しにして持参し、馬琴に写すよう勧めて、馬琴もそれに応じたのであ
るが、崋山・文宝・馬琴、それにしても彼らはなぜこの大男の図に執着したのであろうか。下掲の画像参照。なお模写が完
成して、馬琴の許に届いたのは同月廿六日〉
「大空武左衞門肖像」 渡辺花山原画・亀屋文宝模写(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
◯『藤岡屋日記 第一巻』p391
〝五月
肥後国益城郡矢部庄田所村産、大空武左衛門 る大男、江戸に来る也。
今年廿三才
身丈六尺五寸 量三十五〆目
手平一尺八寸 足長一尺三寸五分
大空のしぐれ飴やの傘借らむ 画人北馬〟
◯『兎園小説余録』〔新燕石〕⑥389(滝沢解著)
〝大空武左衛門
文政十年丁亥夏五月、江戸に来ぬる大男、大空武左衛門は、熊本侯の領分肥後州増城郡矢部庄田所村なる
農民の子也。今茲二十有五になりぬ。身の長(タケ)左の如し
一 身の長(タケ) 七尺三寸 一 掌 一尺
一 跖 一尺一寸五分 一 身の重サ 三十二貫目
一 衣類着丈ケ 五尺一寸 一 身幅 前九寸後一尺
一 袖 一尺五寸五分 一 肩行 二尺二寸五分
全身痩形にて頭小さく、帯より下いと長く見ゆ。右武左衛門は熊本老侯御供にて、当丁亥五月十一日、江
戸屋敷に来着、当時巷談街設には、牛をまたぎしにより、牛股と号するなどいへりは、虚説也、大空の号
は、大坂にて相撲取等が願出しかば、侯より賜ふといふ。是実説也。武左衛門が父母并兄弟は、尋常の身
の長ケ也とぞ、父は既に没して、今は母のみあり、生来温柔にして小心也、力量はいまだためし見たるこ
となしといふ、右は同年の夏六月廿五日、亡友関東陽が柳河侯下谷の邸にて、武左衛門に面話せし折、聞
見のまに/\書つけたるを写すもの也、下に粘ずる武左衛門が指掌の図は、右の席上にて紙に印したるを
模写す、当時武左衛門が手形也とて、坊売の板せしもの両三枚ありしが、皆これとおなじならず、又武左
衛門が肖像の錦絵数十種出たり。【手拭にも染出せしもの一二種あり】後には春画めきたる猥褻の画さへ
摺出せしかば、その筋なら役人より、あなぐり禁じて、みだりがはしきものならぬも、彼が姿絵は皆絶版
せられにけり、当時人口に膾炙して、流行甚しかりし事想像(オモヒヤ)るべし、しかれども武左衛門は、只故
郷をのみ恋したひて、相撲取にならまく欲せず、この故に、江戸に至ること久しからず、さらに侯に願ひ
まつりて、肥後の旧里にかへりゆきにき、
(手形の模写あり)
当時この武左衛門を、林祭酒の見そなはさんとて、八代洲河岸の第に招かせ給ひし折、吾友渡辺花山もま
ゐりて、その席末にあり、則蘭鏡を照らして、武左衛門が全身を図したる画幅あり、亡友文宝携来て予に
観せしかば、予は又そを文宝に模写せしめて、一幅を蔵めたり、この肖像は蘭法により、二面の水晶鏡を
掛照らして、写したるものなれば、一毫も差錯あることなし、錦絵に搨り出せしは、似ざるもの多かり、
さばれ、件の肖像は、大幅なれば掛る処なし、今こそあれ、後々には、話柄になるべきものにしあれば、
その概略をしるすになん、(以下略)〟
〈この模写肖像の消息を尋ねていくと、『馬琴日記』の天保三年(1832)十二月二十八日に「(宗伯、関忠蔵方を訪問)五六年已
前(二字ムシ)ニかし置候、大空武左衛門肖像大画幅とり戻し、かき入不被(三字ムシ)画まき一巻、ふくさともかり請」と
あり、また、翌天保四年正月六日には「関氏より借用之巻物の内。大男大空武左衛門身長等。兎園余録へ加入。謄写之畢」翌
七日にも「旧臘見せられ候大男大空武左衛門画巻物ふくさともに返却ス」とある。肉筆の大空武左衛門肖像には画幅の他に絵
巻もあったようである。一方巷間に出回った大空武左衛門の錦絵では歌川国安の絵が知られる。英泉の画もあげておく〉
「大空武左衛門牛跨図錦絵」歌川国安画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)
「大空武左衛門」英泉画(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)
☆ 文政十一年(1828)
◯『旅道艸』合巻(十返舎一九作 歌川国安画 松村与兵衛板 文政十一年刊)
「大空武左衛門」歌川国安画(国書データベース)
◯『藤岡屋日記 第一巻』p399(藤岡屋由蔵・正月記)
〝当春肥後国熊本の産大空武左衛門廿三才ニて、身丈七尺余、但やせ形ちニて、たとわゞ日陰の木の如し、
頭少し小サシ。
去ル年秋の頃、細川家御屋敷へ来り居、去冬当春角力場へも不出、土俵入角力も取不申、錦絵ニ多く出
ル也。
手の形を押たる図出ル也、尤大き成者ニて、往来馬上の人とあたま同じ様なり。
大小
九州の肥後二むまれて江戸十二
四らぬ人七きおほおと小なり〟