☆ 天明七年(1787)
◯『恵合余見』第1冊[23]・第2冊[70](国立国会図書館デジタルコレクション画像)2-28/70コマ
「遊女(半身像)」天明七年絵暦 画工未詳〈襟袖に小の月の漢数字〉
〈この当時「大首絵」という呼び方であったかどうかは分からない。半身像は◯枠の中にある。当時の人は遠眼鏡で覗いた
ような感じを抱いたのであろうか。役者絵の半身像は既に明和期の春章・文調合作『絵本舞台扇』(明和七年・1770刊)
などに見られるが、美人の場合はいつ頃から始まったものか。この作品、錦絵としては早いもののように思うのだが、
どうであろうか〉
遊女 画工不明 天明七年絵暦(国立国会図書館デジタルコレクション)
☆ 寛政七年(1795)
◯『歌麿』エドモン・ド・ゴンクール著(明治二十四年・1891)(東洋文庫本・2005年刊)
〝女性を描いた歌麿の版画の中に、全部で少なくとも百枚ほどもある「大首絵」と呼ばれる、胸元を少し
入れて女性の頭部をほば実物大に描いたシリーズがある。この色刷り版画には、日本で最も賞賛される
女性美の一つである細い弓なりの眉をした、ほとんどすべて同じような顔つきのステレオタイプな表現
で女性の頭部が描かれており、私たちの興昧はもっばら肩を覆う着物の部分、女性の胸元、指先にもつ
団扇や扇にのみ向かうことになる。
しかし、この大判色刷り版画の完成度はすばらしく、我々の国ではさして芸術的興昧をひかないながら、
日本では芸術的とされる空摺り〔版木に色をのせずに摺る技法。きめ出しともいう〕により、青や赤紫
の着物に桜の花びらや菊の白いレリーフ模様が浮き出していたり、着物の裾の白い透かし彫り風の模様
がレリーフ状に見えて、着物の刺繍部分が盛り上がった様を祐沸とさせる。
林忠正によれば大部分一七九五年頃に制作されたこれらの「大首絵」は、その美しさだけでなく、仲間
が歌麿の名をかたった剽窃版画つまり偽作について、貴重なことを教えてくれるという点でも興味深い
ものである。歌麿は彼の名で出回っている偽作に対して公衆の注意を喚起するため、時分の大首絵に
「正銘歌麿筆」と署名しているのである〟
〈林忠正は何をもって大首絵の製作年代を寛政七年(1795)頃としたのであろうか〉
☆ 寛政十二年(1800)
◯『江戸町触集成』第十巻(近世史料研究会編・塙書房・1998年刊)
◇寛政十二年正月二十一日付の触書(p378・触書番号10797)
〝先達而度々御達申候一枚絵大小之類、伺之上御差留ニ相成候も有之、且御免之上商ひ候も有之所、右壱
枚絵之内女大絵ニ認候絵類有之、是は強而御差留と申義ニは無之候得共、何と歟目立候絵様ニ而先
如何ニ可有之趣も御沙汰ニ付、以来右躰女の壱枚絵相止させ可然旨、寄々猶又可申合旨樽与左衞門殿御
申聞ニ御座候、右は急度及御達候と申儀ニは無之趣ニ付、此段御差含、御組合限り御取計可被成候
右御達申候、以上
申正月廿一日〟
〈どのような一枚絵が差し止めになったのであろうか。また今回禁止に至らなかったものの、何かと目立つて疑義も生
じた「女大絵」とは何であろうか。下記八月十一日付の触書を見ると「去冬、女面躰を大造ニ画」とあり、また文化
元年の十二月の触書には「大顔之絵」ともあるから、現在いうところの「大首絵」の美人画のことと考えられる。当
局は、今回こそ厳しい通達を出さないが、如何なものかと疑問視する向きもあるので、地本問屋の組合はそのことを
念頭において改(あらため=検閲)を行えというのである。次は許さぬといういわば警告である。「去冬」とあるか
ら、当局の視界に「女大絵」が目に余るような形で入ってきたのは、寛政十一年末なのであろう。2013/06/28追記〉
◇寛政十二年八月十一日付触書(p411・触書番号10867)
〝一枚絵之儀、八年以前丑年如何敷品摺出し候趣相聞候ニ付、町年寄心付申渡候品も有之、其後五年已前
ニも、女芸者其外茶屋女等之名前等顕し摺出し候義、仕間敷旨申渡、猶又去冬、女面躰を大造ニ画、其
外男女たわむれ居候体之一枚絵見世売等ニ致、如何ニ付差留候所、今以同様之品売出、不埒之至ニ候、
以来右様之品々并男女之面躰、衣裳も花美大造認、惣而風俗拘候如何成絵様認候るい、以来決而売
出申間敷候、若相背候もの有之候ハヽ、聊無用捨咎可申付候条、其旨相心得急度相守可申候
八月
右之通従町奉行所被仰渡候間、右商売筋之ものハ勿論、家持地借店裏々迄、不洩様入念為申聞、右前書
之趣為相守可申候、此旨町中不残可相触候、已上
八月十一日 町年寄役所〟
〈正月に警告を発した「女面躰を大造に画」いた絵や「男女たわむれ居候体」の絵が依然として売りに出されている。
今回は「若相背候もの有之候ハヽ、聊無用捨咎可申付候」とあり、違犯したら用捨なく処罰するというのだ。2013/
06/28追記〉
☆ 文化元年(1804)
◯『江戸町触集成』第十一巻 p136・触書番号11307(近世史料研究会編・塙書房・1998年刊)
(文化元年十二月二十四日付の触書)
〝一枚絵之内ニ大顔之絵売出申間敷旨、先達而御沙汰有之、右大顔之絵、見世江飾置売不申候様御達申置
候、然ル所此度地本問屋共より来春売出候一枚絵之分、不残樽役所江差出候様被仰付候所、右大顔之絵、
問屋共方ニ当時仕入之分無之旨申立候得共、未ダ見世売之方ニは売残之大顔絵飾置、売候も有之、又は
調ニ参候もの江は仕廻置、売遣し不申ものも有之候ニ付、早々右大顔之絵売不申候様、御組合限御取調
之上、右大顔売出為相止候様、御取計可被成候、此段御達申候、已上
十二月廿四日 壱番組二番組四番組 肝煎〟
〈「大顔之絵」「大顔絵」とは、寛政十二年正月二十一日付の触書にいう「女大絵」、同年八月十一日付の「女面躰
を大造に画」と同じく、現在云うところの「大首絵」のことと思われる。さて、この「大顔絵」という呼称、これ
はどの程度流通していたのであろうか。また現在の「大首絵」と同様に固有名詞として使われていたのであろうか。
どうも「大顔之絵」「大顔絵」「女面躰を大造に画く」など、言い方が固定していないところを見ると、市中での
呼称をそのまま使ったという様子もない。おそらく言葉として成熟していなかったように思う。なお、これ以降の
触書に「大顔絵」は出てこない。これはその種の一枚絵がこれ以降出版されなくなっていったことを物語るのであ
ろう。2013/06/28追記〉