☆ 寛政十二年(1800)
◯『江戸町触集成』第十巻(近世史料研究会編・塙書房・1998年刊)
◇寛政十二年正月二十一日付の触書(p378・触書番号10797)
〝先達而度々御達申候一枚絵大小之類、伺之上御差留ニ相成候も有之、且御免之上商ひ候も有之所、右壱
枚絵之内女大絵ニ認候絵類有之、是は強而御差留と申義ニは無之候得共、何と歟目立候絵様ニ而先ツハ
如何ニ可有之趣も御沙汰ニ付、以来右躰女の壱枚絵相止させ可然旨、寄々猶又可申合旨樽与左衞門殿御
申聞ニ御座候、右は急度及御達候と申儀ニは無之趣ニ付、此段御差含、御組合限り御取計可被成候
右御達申候、以上
申正月廿一日〟
〈どのような一枚絵が差し止めになったのであろうか。また今回禁止に至らなかったものの、何かと目立つて疑義も生
じた「女大絵」とは何であろうか。下記八月十一日付の触書を見ると「去冬、女面躰を大造ニ画」とあり、また文化
元年の十二月の触書には「大顔之絵」ともあるから、現在いうところの「大首絵」の美人画のことと考えられる。当
局は、今回こそ厳しい通達を出さないが、如何なものかと疑問視する向きもあるので、地本問屋の組合はそのことを
念頭において改(あらため=検閲)を行えというのである。次は許さぬといういわば警告である。「去冬」とあるか
ら、当局の視界に「女大絵」が目に余るような形で入ってきたのは、寛政十一年末なのであろう。2013/06/28追記〉
◇寛政十二年八月十一日付触書(p411・触書番号10867)
〝一枚絵之儀、八年以前丑年如何敷品摺出し候趣相聞候ニ付、町年寄心付申渡候品も有之、其後五年已前
ニも、女芸者其外茶屋女等之名前等顕し摺出し候義、仕間敷旨申渡、猶又去冬、女面躰を大造ニ画、其
外男女たわむれ居候体之一枚絵見世売等ニ致、如何ニ付差留候所、今以同様之品売出、不埒之至ニ候、
以来右様之品々并男女之面躰、衣裳も花美大造認、惣而風俗拘候如何成絵様認候るい、以来決而売出申
間敷候、若相背候もの有之候ハヽ、聊無用捨咎可申付候条、其旨相心得急度相守可申候
八月
右之通従町奉行所被仰渡候間、右商売筋之ものハ勿論、家持地借店裏々迄、不洩様入念為申聞、右前書
之趣為相守可申候、此旨町中不残可相触候、已上
八月十一日 町年寄役所〟
〈正月に警告を発した「女面躰を大造に画」いた絵や「男女たわむれ居候体」の絵が依然として売りに出されている。
今回は「若相背候もの有之候ハヽ、聊無用捨咎可申付候」とあり、違犯したら用捨なく処罰するというのだ。2013/
06/28追記〉
☆ 文化元年(1804)
◯『江戸町触集成』第十一巻 p136・触書番号11307(近世史料研究会編・塙書房・1998年刊)
(文化元年十二月二十四日付の触書)
〝一枚絵之内ニ大顔之絵売出申間敷旨、先達而御沙汰有之、右大顔之絵、見世江飾置売不申候様御達申置
候、然ル所此度地本問屋共より来春売出候一枚絵之分、不残樽役所江差出候様被仰付候所、右大顔之絵、
問屋共方ニ当時仕入之分無之旨申立候得共、未ダ見世売之方ニは売残之大顔絵飾置、売候も有之、又は
調ニ参候もの江は仕廻置、売遣し不申ものも有之候ニ付、早々右大顔之絵売不申候様、御組合限御取調
之上、右大顔売出為相止候様、御取計可被成候、此段御達申候、已上
十二月廿四日 壱番組二番組四番組 肝煎〟
〈「大顔之絵」「大顔絵」とは、寛政十二年正月二十一日付の触書にいう「女大絵」、同年八月十一日付の「女面躰を
大造に画」と同じく、現在云うところの「大首絵」のことと思われる。さて、この「大顔絵」という呼称、これはど
の程度流通していたのであろうか。また現在の「大首絵」と同様に固有名詞として使われていたのであろうか。どう
も「大顔之絵」「大顔絵」「女面躰を大造に画く」など、言い方が固定していないところを見ると、市中での呼称を
そのまま使ったという様子もない。おそらく言葉として成熟していなかったように思う。なお、これ以降の触書に
「大顔絵」は出てこない。これはその種の一枚絵がこれ以降出版されなくなっていったことを物語るのであろう。20
13/06/28追記〉