☆ 嘉永三年(1850)<八月>
筆禍(大筒一件)
処分内容 商品回収
◎板元 丸屋甚八「大鰒の腹の下に大勢たおれ居る図」判じ物、回収
板元 不明「雷の屁ひりの画」判じ物、回収
処分理由 浮説流布(大筒の音に気絶した幕臣を擬えたと噂するか)
(絵双紙掛名主の裁量による処分)
(なお「富士山の下ニ石火矢の稽古有之、見分之侍五六人床机をひつくり返シ倒れる処の画」に浮説が
立ったので絵を探索するが、見つからず。板屋清兵衛板の「大筒ためし横画」はお咎めなし)
◯『藤岡屋日記 第四巻』p170(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850記)
「嘉永三庚戌年 珍話 八月より極月迄」
◇大筒一件
〝八月八日 通三丁目寿ぇ絵草紙懸り名主八人出席致、市中絵草紙屋を呼出し、大筒一件之書付を取也。
大筒之狼烟相発候傍ニ、驚怖之人物臥居候体之錦絵、内々売々(買)致候者は勿論、彫刻并ニ摺立候者
有之哉之旨、厳重之御尋ニ御座候、前書被仰含候絵柄之義は、市中ニ験(ママ)類に携候者共、蜜々精々探
索仕候得共、決而無御座候、何様押隠取扱候共、私共不存義ハ無御座候処、右図柄ニ限り及見聞候義無
御座候、若向後見聞仕候ハヾ早々可申上候、外より相知候義も御座候節ハ、何様ニ被仰立候共、其節一
言之義申上間敷候、為後日御請印形仕置候、以上。
絵草紙屋糶
絵草紙懸名主 廿四人
佐兵衛殿初 印
同外七人 名前
一 八月三日、通三丁目寿ニ於て、町方定廻り衆二人出席有之候て、絵草紙屋を呼出し御詮義有之候ハ
富士山の下ニ石火矢の稽古有之、見分之侍五六人床机をひつくり返シ倒れる処の画出候ニ付、御奉
行よりの御下知ニて買上ゲニ参り候よし申され候ニ付、懸り名主より絵草紙やを銘々吟味有之候処
ニ、一向ニ手懸り無之候ニ付、右之由申上候。
一 是ハ先達浦賀表ニ而、大筒のためし有之、其時出役之内、石河土佐守・本多隼之助両人、三拾六貫
目大筒の音の響にて床机より倒れ気絶致し候由の噂、専ら街の評判ニ付、右之画を出せしよし。
一 然ル処、右之絵、所々を穿鑿致候得共、一向ニ相知れ申さず、見たる者も無之候ニ付、八月八日、
寿ニて寄合、前書之通、書面を取也。
一 但し、大筒ためし横画一枚絵出候よし、是ハ浅草馬道絵双紙や板屋清兵衛出板致し候よし。
一 又一枚絵ニて、大鰒の腹の下へ大勢たおれ居り候処の画出ル、是ハ大きなる鉄炮故ニ大筒なり、大
筒の響にて倒れ候と云なぞのはんじものなり、板元芝神明町丸屋甚八なり、是の早々引込せ候よし。
一 雷の屁ひりの画も出候よし、是の大筒のなぞ故ニ、引込せ候よし。
ねをきけバたんと下りて扨つよく
長くこたゆる仕入かミなり〟
〈富士山の麓で石火矢の稽古中、見分の武士が五六人ひっくり返っている絵柄の錦絵が出回る。これについては、石河土
佐守と本多隼之助を擬えたものではないかとの浮説がたったようだ。当時、浦賀において大筒の稽古を行ったとき、そ
の二人の武士は大音響に驚いて気絶したという噂が流れていたからだ。そこで絵草紙掛りが名主が絵草紙屋を集めてそ
の錦絵を探してみたが、見つからなかったという書付である。他に「大筒ためし」の一枚絵が二つ。一つは板屋清兵衛
板。これはどのような絵柄か分からない。もう一つは大蝮の腹の下に大勢倒れているもの。これも大筒の大音で倒れた
という判じたようだ。この丸屋甚八板は早々に回収させたという。また雷が屁をひる図柄のものもあった。これも大筒
のなぞということで回収させたとある。これらは町奉行による規制・処分でなく、それ以前の、絵草紙の改掛りの段階
で規制した例である。このように、改の時点では判じ物であることを見抜けず、あとで浮説が立ってから、掛りの名主
が早々に介入して規制を行う例も多かったのではないか〉