◯『街談文々集要』(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化五年・1808)
◇「三朝夏大当」
〝文化五戊辰六月八日より、市村座ニおゐて、尾上松助【元祖菊五郎弟子/三代目菊五郎父なり】小幡小
平治の狂言ト、播州皿屋敷の狂言、一チ日替ニ相勤、こはだ小平次大当り【後ニ皿屋敷ノ興行なし】
此小はだ小平次の狂言ハ、山東京伝著述、絵入読本『安積沼物語』、歌舞伎狂言ニ仕組し也、大名題は、
『彩入御伽艸紙』(以下、配役あり、略)
(興行中、小平次の霊に取り憑かれた尾上松助病気になり、伜栄三郎代役を務め評判を得る。
閏六月二日、回向院にて小平次の施餓鬼修行、三座の役者残らず参詣。江戸の人々群集す)
此施餓鬼見ニまかりて、
おす人ハ引きもきらずのすしなれやけふのせがきのこはだ小平次 蜀山人
(松助死亡を報ずる「読売」の記事、「小幡小平次伝」あり、略)〟
〈三朝は尾上松助の俳名。回向院での施餓鬼は芝居の前景気を煽るために松助達が仕組んだパフォーマンス〉
「尾上栄三郎」(早稲田大学演劇博物館・浮世絵閲覧システム)
◯『街談文々集要』(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化六年・1809)
◇「三朝之改名」p167
〝(文化六年)当顔見世、市村座大名題『貞操花鳥羽恋塚』尾上松助、松録と改名、尾上栄三郎、松助と
改名【忰にて二代目松助】、此節、山東京伝狂歌あり、
子の日する野辺の小松にゆづる名を千代のためしにひゐき連中
三芝居、顔見世の内、第一の大当り、遠藤武者盛遠、松本幸四郎・渡辺左衞門尉亘、板東三津五郎、両
人石段のタテ大評判なり、袈裟御前、岩井半四郎、崇徳院蔵人満久、植木売、松実源朝長、松助【栄三
郎改名】・清盛【しばらくうけ】、義朝の霊、松緑【松助改名】・渋谷金王【しばらく】、猪の早太、
八丁磔、嘉平次、団十郎、余爰ニ略す、歌舞伎年代記ニくわし。
此節二番目狂言招牌一枚、北斎画キたり、中評なり、看板は鳥居ニとゞめたり〟
〈歌舞伎の看板絵といえば、鳥居派の様式がやはり絶対的なようで、北斎をもってしても、評判はいまひとつなのであ
る。文化八年にも看板を画いた記事あり〉