◯『街談文々集要』p442(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化十三年(1816)記事「女上るり始」)
〝文化十三丙子五月廿七日
妙音院声誉芝枡大姉【俗名おでん、後ニ芝枡ト云々、浅草三谷千念寺葬ス】
抑女義太夫ぶしの無類名人といわれし、おでん稽古の初りハ、宝暦四戌年、其頃銀座四丁目に河内太夫
とて老人あり、其弟子なりしが、河内故人となり、夫より舛太夫門人となり、舛太夫事丹後掾と受領す、
故ニ舛の一字をおでんニ譲る、おでんハ芝口出生なるゆへ、芝枡とぞ号しける、三味線も名人也、利兵
衛・政太夫常に申けるは、我等も語る事ハ負もせまじが、此弾方にハ及ずと言しよし、其後隠居して、
弟子舛吉ぇ芝枡を譲りける。誠名人も老衰となりてハ、人々の譏も如何とおしはからるゝ内ニ、隠居せ
しハ、功なり、名とげ身しりぞくなるべし。
老ぬれば麒麟も土場の浄瑠璃といわれぬ先にゆずる名人
辻々のちらしに、芝枡と書ず、壱人と書しハ此人斗、外類なし
(以下、女浄瑠璃の名あり、略)
元祖芝枡おでんト云は、名を木挽町汐留扇や万次郎妹娘おむらト云、芝枡弟子トなり、上るい能かた
り、二代目芝枡ト争ひ、竜虎の勢ひなり、右ニ師匠よりおでんの名をゆづる、是を淫婦の名ヲ得て、
板東秀佳(舟木ノ三ッ五郎)妻トなり、又五代め菊之丞ト不義ありて、終ニ妻トなり、乗物町ニて死
去せり、右おでんノ事、別ニくわしく記す〟
◯『増訂武江年表』2p101(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(天保年間・1830~1843)
〝六字南無右衛門、左門、よしたか等が流れを汲める女太夫行はれて、場を構へ高座に登りて恥づる色な
く、婦女子のにげなき義太夫の浄るりかたりける。愚夫愚婦きそひてこれを聞きこれを看て、芸の巧拙
をいはずして容貌の美悪を論じけるが、やがてこれを禁ぜらしかば、此の輩いづちへか去りたり〟