Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ てあそび おもちゃえ(手遊び 玩具絵)浮世絵事典
   ◯『【寛保延享】江府風俗志』〔続大成・別巻〕⑧15(著者未詳・寛政四年(1792)十一月記)    (寛保(1741~1743)~延享(1744~1747)年間の風俗記事)   〝予供の手遊は、浅草堺町、芝神明抔多き所にて、一枚絵双紙はりこ人形土人形等也、一枚絵は丈長厚紙    にて、多く武者絵、彩色砂箔置、黒き所は漆絵とて黒光也、芝居役者の絵は稀なる事也、本も赤本とて    金平地獄廻り、鼠嫁入、花咲ぢ々抔、かなのよみ本はから紙表紙にて、五すいでん或は牛若十段抔のや    う成類にて有し、人形は下りの赤塗鋸(オガ)くず煉、同猿の子持又はちいさき木地猿、土人形女□等一    文、首大成るは青色の悪公家、のろまの首などにて、今(寛政期)の如き結構成手遊はなかりし也、堺    町浅草には下りの遣ひ人形有り、是は上物なれ共、今の日にては、甚鹿相成事にて有し、尤大名方の手    遊は、木地人形ぬり立に金箔上彩色、はだか人形猫狗等、けし人形小豆程にして、金箔仕立のいかにも    念入たる細工有し、今も替らぬは猿の水車、赤もよふの経木作りの小き傘のみ、扨今の大き成起上り小    坊主(コボシ)、安永の頃より次第々々大きく成しは、扨々手遊(ダルマ)とは云がたし、況や近年男根のはり    こ、扨々驚入し不遠慮、是を調あてがふ親、何といふ心ざしにて有しやいぶかしゝ〟    ◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥141(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)   〝寛政三年六月迄は、夏になると盆太鼓迚(トテ)、手遊を売来る、さし渡し五六寸位に、竹の輪に西之内紙    にて張り、阿膠を引あやしき公家の絵を書、持所を長さ五寸程の柄を付、箸にて打ながら、盆太鼓々々    々と云ふて売来しが、其後さらに不来、一ツの価十文十二文位に売けり、是を女子ども盆歌を唄ひ歩行、    町に音頭の子供打歩行、手を引合ふて譁(ヤサ)しき物なりしが、今の子供は手を引合て、歌は唄へど物あ    らく、兎角喧嘩好むやうにて、悪口など云ふて、女子遊びとは見えず、男童べの遊びに似たるものか〟  ☆ 明治以降(1868~)  ◯『東京土産掌中独案内』安倍為任編・出版 明治十(1877)年十月刊    (国立国会図書館デジタルコレクション)   (「六十一 東京買物向寄案内」の項)    〝団扇  堀江丁川岸 俗ニウテハ川岸ト云  万丁 ハイバラ        馬喰丁    手遊物 浅草茅丁  同観音仲見セ〟  ◯「浮世絵師追考(二)」如来記(『読売新聞』明治30年(1897)2月1日記事)   〝一鵬斎芳藤(ぽうさいよしふじ)    西村氏、俗称藤太郎、同じく国芳門人にして、弘化年中の人なり。武者画、切組画多く、特に手遊屋の    姉さま人形の衣裳の如き、色彩の配合、模様の塩梅など極めて精巧緻密にして、最も其妙を極めたり。    故に一時世に伝称して手遊芳藤といふ〟  ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   「鈴木学校」p28   〝手遊絵でも芳藤のものなどは一時複刻を見たほどで、今でも何処にか好事(コウズ)の人の蒐集が残ってい    ればよいと思っている。私などは時折考えることだが、あの時分(明治十年代)に絵草紙店もなく、    従って身のまわりに手遊絵が無かったとしたら、生い立ちはいかに索莫を極めたであろうか。その作者    達は多く「芳」とか「国」とかを画号の頭字に置いていた〟  ◯『若樹随筆』林若樹著(明治三十~四十年代にかけての記事)   (『日本書誌学大系』29 影印本 青裳堂書店 昭和五八年刊)   ※(原文に句読点なし、本HPは煩雑を避けるため一字スペースで区切った   ◇巻七(歌川国芳と弟子たち)p185   〝一体玩具絵といふのは絵かきの内職で 閑な時にかいといて絵双紙屋へ買つて貰ふものだが 芳藤は此    方に善い頭を持つゐて 色ざしが旨く画面にむだの無い様にかくのが名人だつたので、遂におもちや絵    で成功した 板下の安いので売り出した 所謂数でこなしたのは芳虎だ 玩具絵一枚の板下が其頃の相    場で五百から一朱までだつた〟  ◯『浮世絵』第五号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「手遊絵(おもちやゑ)と芳藤」松村翠山(20/27コマ)   〝(前略)手遊絵(てあそびゑ)は古い時代から板行されて 有名の浮世絵師の描いたゑも少なくない様で    あるが、特に安政の初め頃から隆盛の機運に向つて、明治十五頃が頂上であつた。其後印刷術が進んで、    石版や写真版の為めに圧倒されて、遂々衰微して仕舞つたのは、時代の推移とは云へ、誠に惜い事であ    る。隆盛であつた三十余年間には、日本橋馬喰町の西与・江辰(江崎屋辰二郎)・樋口、横山町の岩喜・    辻文、通油町の藤慶、両国広小路の大平(だいへい)・加賀吉、芝神明前の泉市・佐野屋・若狭屋、市ヶ    谷八幡前の佐野市、下谷稲荷町の文正堂、堀江町の海老林、人形町の具足屋、土橋の松田屋、其他の版    元が、各々意匠を争つて毎年夥しい枚数を発行した、版元の内で芳藤の絵を主に扱かつたのは、稲荷町    の文正堂と横山町の辻岡屋の二軒であつた、前者は殆ど手遊絵専門で市内に顧客(とくい)が多く、後者    は手遊絵もあるが、概して婦人絵(をんなゑ)・芝居絵・双六・有卦絵の類で、文正堂の絵に比較すると    彫刻(ほり)も摺方(すり)も余程劣つて居る、而(しか)して大部分は仕入物と言ふ格で地方に売捌(はか)    れて居た。明治十五年以後今日でも手遊絵を販売して居るが、絵具と紙質が極めて劣悪になつた為め、    観賞の価値あるものは些(すこ)しもない。     手遊絵の隆盛になつたのは嘉永六年の夏、黒船の渡来が動機となつて、世の中が騒がしくなり、政治    上は勿論一般の経済状態にも著しく減した。夫が為め諸方の版元が出版を手控へる様になつた。斯なる    と従来(いまゝで)宵越の銭は使はぬと言つた風の、江戸つ児肌で生活して居た浮世絵師の連中は大恐慌    で、彼等社会の銭廻りが非常に悪くなつた。そこで普通の錦絵と形式の異つた価の廉い、児童を顧客の    中心とした、主に一枚ものの手遊絵を描き出したのが、芳藤・芳春・芳虎・芳綱・芳盛・芳艶・芳幾・    芳宗・芳員・芳正・重宜・国郷・国綱・国政・国麿・艶丸・周重・国利・幾飛亭等で 時好に適した為    めか売行きが盛になつたのである、就中(とりわけ)芳藤の如き名手が、当時の年中行事、時世粧、流行、    童話、動植物、器物等の状態を 実際的、仮相的、教訓的、諷刺的、滑稽的に 児童に同化する気分で    描いた為め最も児童に歓迎される様になつた。     芳藤は国芳門下の錚錚たるもので、初めは武者絵・風俗絵・芝居絵・婦人絵(をんなゑ)等を描いたが、    努力した割合に歓迎されなかつた、其内に錦絵の売行きが詰まつた来たので、襲来の方針を変へて組上    灯籠や手遊絵を専門に描く様になつた、元来手腕の優れて居た彼が取材や描写に非常なる苦心をして、    凡ての真髄を捉へ 巧に手遊化したので、同種類の物の内で異彩を放つ様になつた、夫が為め彼の版下    は諸所の版元で引張凧になつたらしい、芳藤の描いた手遊絵で現存して居るものの版元が多数なるに就    いても推定が出来る。而して芳藤が作画に忠実であつた実例は、私の所蔵して居る手遊絵の版下を見て    も、区画の極めて細かい絵であるに拘はらず、少なくも一二回多くは四五回の訂正を施さぬものはない、    斯様(こんな)工合で彼れは一線半点の微と雖も忽(ゆる)がせにしなかつた事が能く判る。(中略)     夫であるから 彼の没後廿余年を経た今日、手遊絵と言へば直ちに芳藤の名が連想される様になつた    のである。嘗て芳藤の絵を出版して居た馬喰町三丁目の樋口絵双紙店主の談に依ると、或年同店で三枚    続きの組上灯籠の下絵を依頼したが、数日を経るも下絵を届けて来ない 同人の気質を知つて居る主人    は 其侭にして待つて居たが、余り長くなるので催促をした、すると二三日経て 芳藤が自身で下絵を    持つて来た、主人は数日費して描き上げたのであるから、直に彫刻師へ廻せると思つて居ると、芳藤は    一旦渡した絵を披いて居たが、未だ気に入らぬ個所があるから訂正して二三日の内に届けると言つた、    其折主人が     「先生斯様(こんな)絵は左様(さう)丁寧の事は要りますまい」と言ふと 芳藤は頭を振つて     「左様(さう)ではありません 私は死んでも、絵は後に遺るものですから。自分の気に入つたもので      なければ、板にはかけられません」     と、話されたと樋口氏より聴いた事があつた、此言葉に依るも芳藤の抱負を知る事が出来よう。     芳藤は手遊絵の顧客が児童を中心として居る事に留意して、取材に苦心した事は勿論であるが、生来    凝性の彼は微細な事でも、(児童と同様の気分に)徹底するまで研究をせねば止まなかつた、夫故随分    奇行もあつた様である。     或年の冬 朝起ると直に寝衣の侭楊子を啣(くは)へて、洗湯に出懸けたが正午近くになつても戻らぬ    ので、家人は心配して居ると 空腹になつたと言つて帰つて来た、家人が何方(どちら)へ行かれたと尋    ねると、近所の知人に急用を憶ひ出したので 立寄つて来たと言ふたが、其実彼は湯屋の近所まで行く    と獅子舞が賑やかに囃子たてゝ居たので児童と伴に 其後に跟(つ)いて拍子を歩いて居たが、朝湯に出    たのに気がついた彼は 慌てゝ入浴を済せて帰つたのである事が後に判つた、此外物売の後を跟いて歩    いて 呼び声の研究をする為に肝心の用事を忘れたり、祭礼に神楽屋台の前へ立つて身振手振をして傍    の人を笑はれた事なそは数回あつた相(さう)だ。     芳藤が手遊絵を描き初めた当時の署名は「藤よし」と記した絵が多い様である。是は因襲的の習慣に    捉へられた結果であらうと思う、現今の如く芸術家が一般社会より、重視せられなかつた時代に於ては、    彼等の品位も低く自ら「絵描き」なる職人気質に甘んじて居た、随つて師弟関係の如きもなか/\厳格    なもので、些(すこ)し異なつた試みを為すには 師匠の許諾を要したものである、師匠の不承知である    事を敢へてすれば 直ちに破門の憂目に会ふたものである、其様窮屈の時代であつた為め 芳藤も師の    国芳や同門の人達に憚つて最初から「よし藤」と署名しなかつたものと考へられる〟  ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「明治時代玩具屋風景」p129   〝ブリキ細工もろくろく見られぬ明治中期の玩具類、多くは江戸風俗の名残を止めた、罪のない品物ばか    り。おしゃぶりをしゃぶって宮参りの犬張子、お祝物の鯛車で育て上ったわんぱくどもが、おいみんな    あそぼうよ、とひっくり返すおもちゃ箱の中は、芳藤のおもちゃ絵そのまま。起上り小坊師の達磨、み    みずく、竹製の紙鉄炮、吹矢の道具、張子の神楽面に笛太鼓。威勢のよいところで、まとい、鳶口、木    製の竜吐水、強がりは清正のかぶと、銀紙の名刀、神楽の面は木彫の上物もあって、外道ひよっとこ、    天狗、狐乃至(ないし)は素戔嗚尊などすばらしい出来、雨降りの室内遊戯にはずいぶん調法した。月に    すすきの花山車なども大小いろいろ。(中略)    二十年頃ゴムの弾力で飛ぶ紙製の蝶々ができて、上野山下あたりの往来で売っていたが、よく飛ぶよう    に売れた。続いて紙風船、これの当時の名物であった。縁日のおもちゃ屋では「器械の亀の子」、これ    は小さい硝子箱の中へ紙製の亀の子、箱を動かすと亀の首や手足がブルブル動く粗末なものだが大流行、    親も子供もこんな程度でにこにこしたのは全くのんびり〟