◯『紫の一本』上(戸田茂睡著・天和三年(1683)跋)
(国立国会図書館デジタルコレクション『戸田茂睡全集』130/273コマ)
〝永代橋 八幡の社有り、此地江戸をはなれて宮居遠ければ、参詣の輩も稀にして、島の内繁昌すべからず
とて、御慈悲以て御法度ゆるやかなれば、八幡の社より手前二三町の内は、表店は皆茶屋にして、あまた
の女を置て参詣の輩のなぐさみとす、就中(なかんずく)鳥居より内をば 洲崎の茶屋といひて、十五六の
計なるみめかたちすぐれたる女を 十人計もかゝへて置て、酌をとらせ小うたをうたはせ、三味線をひき
鼓をうつて、後はいざおどらんとて、当世はやる伊勢おどり「松坂こへてやつこの此このはつあらよいや
さ、爰に一つのくどきがござる」なんどと、手拍子を合せて踊る、風流なる事、三谷の遊女も爪をくはへ
塵をひねる、花ぐるま屋のおしゆん、おりん、沢潟屋のおはな、枡屋のおてふ、住吉屋のおりんなんどは
御の字じやと云也〟
〈小唄・三味線・鼓・踊りの芸でもてなし、そのうえ酌の相手もする十五六の女たちが、深川八幡界隈の茶屋に出現した。
これには吉原の遊女たちも羨望の思いをしながら黙って見ているしかなかったという。これを雑誌『此花』(第1号大正
2年刊)「舞子と踊子」のように、江戸のおける踊子、後の女芸者の始まりと捉える向きもある。また同書によると、踊
子を女芸者と呼ぶようになったのは、踊りを踊らない三味線弾きの芸者が多くなったことによるという。下掲の川柳4
はそれを踏まえた穿ち〉
◯『増訂武江年表』1p144(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(寛保元年(1741)記事)
〝「我衣」(曳尾庵著)云ふ、是の年踊子停止せらる。ころび芸者の鼻祖なりとあり〟
◯『増訂武江年表』1p161(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(宝暦五年(1755)記事)
〝三月十六日より、深川永代寺にて、信州戸隠明神九頭竜権現(顕光寺)開帳(この時神楽を舞ふ神子(ミ
コ)、美女の聞えあり。其の名をおゑんといふ。踊子の事を俗におゑんといふ諺はこれより始まれり)
筠庭云ふ、踊子は元文頃よりありとか。村松町、橘町辺、最も多かりしと云ふ。「武野俗談」に、踊
子におゑんといへるもの、其の頃はやりし者なるよし見ゆ。されば此の説は非也〟
◯『奴凧』大田南畝著〔南畝〕⑧p477
〝女芸者の事を昔はをどり子といふ。明和、安永の頃よりげいしゃとよび、者(シヤ)などとしやれたり。弁
天おとよ、新富などゝいひし、橘町に名高し。『妓者(ゲイシヤ)呼子鳥』といふ小本【田にし金魚作、後
に虎の巻と改む】此三人の事を記せり〟
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
1 おどり子のかくし芸迄してかへり 「柳多留1-14」宝暦10【岩波文庫(一)】
2 おどり子をよろよろ足でおつかける「明5天2」 明和5【川柳】
〈おそらく老人の留守居役か〉
3 踊り子のまたぐら迄は度々の事 「柳多留6-7」明和8【川柳】
4 踊子におどれと留守居むりをいゝ 「柳多留17-41」天明2【川柳】注「芸なし」
〈着任したばかりで実情を知らない江戸留守居役であろう〉