〈あらかじめ「踊形容」について説明しておきたい。まず読みについて、安政三年刊・三代目豊国画「踊形容新開入之図」
に「をどりけいようにかいいりのづ」のルビがあるから「おどりけいよう」と読む。どのようなものかというと、嘉永
六年の町奉行の隠密廻の報告書に「踊形容と申立候は、歌舞妓役者共狂言似顔之図二候得共、名前・紋所を不印」とあ
るから、役者似顔絵ではあるものの、画中に役者名と紋所を記さないものを云うようだ〉
☆ 弘化三年(1846)<十一月>
◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部 第八三件 p42)
(町年寄・館市右衛門の町奉行宛伺書)
〝兼て掛り名主共相願候ハ、一体絵双紙・壱枚絵共改方之儀、下絵ニて改印いたし遣し、猶又彫刻摺立候
品差出し、見届受売捌可申処、近来右渡世筋之者下潜したし、名主共え見本絵不差出以前売散し、日数
過キ差出、其品ニ寄下絵違ひ等為相直候内、最早市中売出し候儀間々有之、名主共手限と見掠候仕成ニ
も被存、取示方甚心配仕候、去ル寅年(天保十三年)六月、絵類・絵双紙御取締被仰出、歌舞妓役者・
遊女・女芸者等開板致間鋪段、於北御役所被仰渡、猶又翌卯年(天保十五年)五月、子供踊遊と名付歌
舞妓狂言ニ紛敷、向後団扇絵其外都て右形容不似寄様、弥絵柄改正可致旨、於南御役所被仰渡、恐入精
々相改候得共、全古風之絵組ニては捌ケ方不宜より右躰下潜売出し候者等可有之哉、全役者似顔・遊女
・女芸者、其外風俗ニ可拘品ニ無之其余踊形容認候位之処は、掛り名主共改印致し遣し候ハゝ、渡世向
も行立下潜商ひ等不仕、却て取締方可然哉、御賢慮奉願候旨兼て申立候〟
〈町年寄・館市右衛門が町奉行の判断を仰いだ文書である。最近、名主の改(アラタメ)を受ける前に売り捌く者がいたり、
見本の下絵と違うところを直させている最中に売り出す者がいる。天保十三年六月、歌舞伎役者・遊女・女芸者の絵
類の出版を禁じ、翌年五月には子供踊遊と称するものも、狂言に紛らわしいとして禁じたのであるが、それら以外の
古風な絵柄では売れ行きが宜しくないので、結局目を逃れて不正を働く。したがって、役者似顔絵や遊女・女芸者の
絵、そのほか風俗に拘わらない踊形容くらいは認めてやってはどうかという伺いである。下出、弘化四年二月の「市
中風聞書」によると、この踊形容は弘化三年の春頃から出回りだしたとある。するとこの町年寄の伺いは、これを念
頭においてのものと思われる。これらを正式に許可したほうが不正を防げるという理屈だ。この伺いは当然、板元・
絵双紙屋・絵双紙改掛名主の意向を受けてのものだが、この踊形容の容認については、町奉行の市中取締掛の与力た
ちも一致していた〉
(南町奉行所市中取締掛与力評議)
〝全役者似顔・遊女・女芸者、其外風俗ニ可拘品ニ無之踊形容之絵姿位之儀は、改印致し候様相成候共、
強て風俗に拘候と申程之儀も有之間敷候間、掛り名主共見込之通取計可申旨被仰渡、可然哉ニ奉存候〟
〈これらが功を奏したのか、町奉行は踊形容を正式に容認した。下出、弘化四年六月の(絵草紙屋の絵草紙掛名主宛願
書)参照。また『藤岡屋日記』嘉永三年七月記事(第四巻p158)にも次のように出ている〉
〝踊形容之分、御手心を以御改被下候ニ付、売買之差支も無之〟
〈「御手心を以」とある。この容認を寛大な措置と捉えたわけだが、下出、嘉永六年の隠密の報告の中にもあるように、
実は町奉行には別な計算も働いていた。これは後述する。ともあれ、役者似顔絵である踊形容が認められて、売買は
活況を取り戻し、一息ついたようだ。しかしなお曲折は続いた〉
☆ 弘化四年(1847)<二月>
◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二」(市中取締之部 二 第二三件 p4)
(「市中風聞書」)
〝哥舞妓役者共似顔錦絵之儀ハ御制度之品ニ候処、昨年之春頃より役者共之名前は認不申候へ共摺出し、
去年秋之頃より甚敷相成、新狂言之似顔を商ひ候てより、当春抔は通例之絵は三四分ニて、六七分は役
者絵を商ひ候よし、勿論近年紙価貴く候間、其儀可有之候へ共、御改革以前よりも高料之品有之、勿論
色摺之篇数も多く手込ミ候品共ニ有之(以下、春画記事あり。略)〟
〈前出の町年寄の伺いなどもあってか、町奉行は配下の市中取締掛に情報の収集を命じたようだ。これはその報告書。
それによると、踊形容は弘化三年の春頃から出回り始め、秋頃からは禁じられているはずの新狂言に取材した役者似
顔絵さえ売買されるようになった。今年の春に至っては売買の六~七割がその手の役者似顔絵で、通常の絵は三~四
割というありさま。そればかりではない、天保の改革以前より高価な品や摺り数の多い手の込んだ品も出回っている
ともいう。どうやら規制が緩み始めたのである〉
☆ 同年<五月>
◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二」(市中取締之部 二 第二三件 p22)
(町奉行鍋島内匠頭の老中阿部伊勢守宛て上申書)
〝(前文に上出<二月>の「市中風聞書」と同じ文あり・省略)
此儀、歌舞伎役者共似顔錦絵ハ前々より御構無之、尤当時之如く巧ニハ有之間敷候得共、東マ(ママ)錦絵
と唱え、東都之名物ニ相成居、国々え之土産等ニもいたし、享保・寛政度も其侭御沙汰無御座候処、去
ル寅三年(天保十三年)、錦絵と唱え哥舞伎役者・遊女・芸者等を一枚摺にいたし候儀、風俗に拘り候
筋ニ付、以来開板は勿論、是迄仕入置候分とも決て売買致間敷旨、町触いたし候後は、右渡世之もの共
差当売ものニ差支、子供踊り之絵組ニて開板売出し候処、是以狂言筋之由ヲ以被差留候間、工風いたし、
趣意弁別致し兼候絵を板行致し、右之内頼光四天王之絵、又は天上人間地獄之絵、其外品々不分り(ママ)
之絵柄など差出、人々之目ニ留り、是は何に当り可申抔、判断を為附候様ニ致成、奇を好候人情ニ付、
新絵出候度毎争て買求、彼是雑説いたし候ニ付、絶板売止申付候後は、猶々難得品之様ニ相心得、探索
いたし相調、残り少ニ相成候所ニ至候ては、纔三枚ツヾキ之絵弐朱壱分位ニも、素人同士売買致し候由
ニ相聞く、右は何となく御政事向御役人え比喩いたし候事ニも相聞、以外之不宜筋ニて、其頃兎角右体
之取計いたし、人ニ為心附候様致し成、専利を求候儀ニて、夫も渡世薄く取続兼候所よりいたし成候儀
ニ有之、当時右体之儀は更ニ無之候得共、似顔絵よりは尤不宜筋ニ有之、併前書之通差留相成候役者似
顔絵を公然と商ひ候は、全触背之義ニ付、早速咎も可申付処、役者名前ヲ不顕は憚居候筋ニ付、此後新
狂言之絵組ニ当り候分は、売出し申間敷旨申渡置候様可仕候〟
〈この文書は上記二月の「市中風聞書」を受けて、町奉行が老中に意見の述べたもの。
役者似顔の錦絵は前々より禁止ではなかった。東錦絵と称して江戸の名物土産にもなっていた。享保・寛政の時は別
段の沙汰もなかったが、去る天保十三年六月、役者・遊女・芸者絵は風俗に拘わるとして、開板は勿論、在庫の売買
も禁じられた。その後、これらを生業とするものたちは当面の商品にも差し支え、子供踊りの絵を売り出したが、こ
れも芝居絵とされ禁止になった。そこで工夫して、絵の趣旨が何であるか判断しかねるようなものを売り始めた。そ
のうち「頼光四天王之絵」や「天上人間地獄之絵」など、判読しがたい絵柄のものが出て、人々の目に止まり、これ
は何あれは何などと、解釈に興ずるようになった。(いわゆる判じ物である)奇を好むのが人情だから、新しい絵が
出るたびに競って買い求め、かれこれと雑説を立てる。それで絶版や売買禁止にしたのだが、人々は逆に一層入手が
困難とみて探し求めるようになった。在庫があと少しともなると、僅か三枚続きの絵を、素人の間では二朱一分で取
引しているとのことだ。これらは、それとなく政治内容や役人を擬えているとも聞くので、甚だ宜しくない。もっと
もこうした体裁にして、人の気を引こうとしたのは、専ら利益を求めてのことで、生活が成り立ちにくいからであっ
た。現在、そうした体裁の絵はないが、役者似顔絵より宜しくない。無論禁制の役者似顔絵を公然と売買するのは違
犯であるから、早速処罰せねばならないところだが、役者の名を顕わにしないなど、お上に遠慮するような姿勢も見
えるから、新狂言に取材したもののみ販売禁止とする。判じ物は「似顔絵よりは尤不宜筋ニ有之」。町奉行側にも、
判じ物の毒性(幕政批判)は役者似顔絵の弊害(風俗紊乱)よりたちが悪いという判断があったのである。これが踊
形容の容認に繋がった〉
☆ 同年<六月>
◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部 第九二件 p130~133)
(町奉行遠山左衛門尉の絵草紙掛名主宛申渡案)
〝歌舞伎役者・遊女・芸者等を一枚摺ニ致候儀、風俗ニ拘り候筋ニ付、以来開板は勿論、是迄仕入置候分
共売買致間鋪旨、去ル寅年(天保十三年)相触置候処、近来役者名前は書顕不申候へ共、新狂言ニ似寄
候錦絵、又は時之雑説等を絵組に致候品、中ニは改不受売出候も有之趣相聞、既に今般吟味の上咎申付
候者も有之、如何之事ニ候、向後右様之類改方精々入念、紛敷儀無之様可致候〟
〈町奉行が念入りにチェックするよう絵双紙掛名主に求めたのは次の三点。一つは新狂言に取材した踊形容。これは上
記のように、踊形容そのものを禁じたのではなく、新狂言に取材したものは見逃すなという意味なのである。二つ目
は「時之雑説等を絵組に致候品」いわゆる判じ物。三つ目は「改不受売出候」無許可出版。踊形容についていえば、
二月以来の役所内の動向をおそらく案じたのであろう。同じ六月、版元たちが連名で絵双紙掛の名主宛に次のような
願書を提出していた〉
(絵草紙屋の絵草紙掛名主宛願書)
〝以書付奉申上候
壱枚摺錦絵之儀、各方御見届印無之品売買仕間敷旨、兼て之被仰渡相背、湯嶋六町目文助店(太田屋)
多吉外拾六人、今般南御番所え被召出御吟味相成、於私共も奉恐入候、絵類之儀、遊女・芸者・歌舞妓
役者之類不相成は勿論、子供踊抔と唱候分も不宜旨、御沙汰有之相守罷在候処、女絵又は名所風景等之
絵柄のみニては売捌方不宜、難渋仕候趣被及御聴、各方御相談之上、絵柄次第ニ寄、踊形容姿絵之類は
御改相済候様相成、一同渡世致能罷成候所、右ニ付、御改正相弛ミ候抔と心得違仕候者も有之哉、当時
狂言座興行中之狂言似寄之絵追々差出、世評も不宜以之外之儀ニ付、向後は前々之通り、踊形容之類も
御改メ被成間鋪旨被仰聞、左候ては一同難渋仕候間、私共御歎願申上候上は、何様ニも同渡世之儀ニ付
厚く世話仕、私共最寄々ニて平生心付可申、尤、御改請彫刻摺立候ハゝ、売出し已前下絵草稿御引合、
再御改可有之筈之処猥ニ相成、売出候後御引合ニ差出候類有之、右等之内ニは草稿違之品も打交り、不
締之趣被仰聞候間、此後は、後引合不相済候絵柄売出候ハゝ、右絵類売留メ被仰付候積り堅く申合、勿
論御見届印無之品見せ売致候類、其外風儀不宜商ひ致候者、及見聞次第早速申上候様仕、何れニも不取
締之儀無之様可仕候間、是迄之儀は何分ニも御宥免被成下、御調方御猶予奉願上候、以上〟
〈この願書は和泉屋市兵衛・佐野屋喜兵衛・蔦屋吉蔵・山本屋平吉・山口屋藤兵衛・大黒屋平吉・屋号の記載がない喜
兵衛・上州屋金蔵、以上の版元が連名で出した。願いは二つ、一つは今町奉行に召喚され吟味を受けている太田屋以
下十六名に対する寛大な措置、もう一つは踊形容について。版元たちは云う、今後は踊形容の類も以前同様に出版を
認めない意向だとも聞く、しかしそれでは我々の生業が立ち行かない。今後は、改をきちんと受け、改印のないもの
や、風紀上宜しくないものは見つけ次第報告するから、今回は重々配慮をして欲しいと。次の上申書でも分かるよう
に、結果的に踊形容に関する願いは叶った。しかし新たな規制が加わった〉
☆ 同年<十一月>
◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部 第九七件 p148)
(絵草紙掛名主の上申書)
〝一 七福神曽我之初夢 錦絵五枚 元大工町 平次郎店 板元 三河屋鉄五郎
右錦絵、当十一月中草稿を以改請此節出板、絵草紙屋共之内見せ釣し売致候者有之候間、取上取調候処、
右鉄五郎儀おろし売致候砌、釣し売致候ても不苦旨相断候由ニ候得共、先達て踊形容ニ紛敷錦絵釣し売
致間鋪旨申渡、証文取置候処、卸売之者申聞候迚釣シ売致候は、絵草紙屋共心得違ニ付、釣売致候分取
上ケ、板元鉄五郎儀は、釣売可致旨絵草紙屋共え申聞候段、以之外心得違ニ付、板木取上ケ削取、右錦
絵売買差留申候、依之取上ケ絵相添、此段申上候、以上
(弘化四年)十二月廿日 絵草紙掛り名主共〟
〈「先達て踊形容ニ紛敷錦絵釣し売致間鋪旨申渡」とある。おそらく弘化四年の六月以降に、踊形容の店頭での「釣し
売」を禁じる通達が出されたようである。踊形容のいわゆるシタ売はこの頃から始まったものと思われる。ところで
岩切友里子氏によると、この「七福神曽我之初夢」は役者似顔の五枚続で国芳の画、残っている作品の版元は湊屋小
兵衛、三河屋は糴売(セリウリ)だろうとする。(『浮世絵芸術』№143「天保改革と浮世絵」)〉
☆ 嘉永二年(1849)<五月>
◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二八六件 p219)
(南町奉行市中取締掛与力評議書)
〝錦絵類絵双紙懸名主共之改を不受出板致し候もの、并右を猥ニ受売致し候絵双紙屋共取締之儀勘弁仕候
処、壱枚絵之儀は、御改革初発より品々御沙汰之次第も御座候ニ付、価其外摺立篇数等ニ至迄被仰渡有
之候得共、弛勝之品ニて、当時は篇数彩色如以前手数相懸ケ、人物之絵は、衣類之模様等にて推考為致
候画柄多く、尤、歌舞伎役者之形容ニ似寄候錦絵は釣し売不致筈、先達て懸名主共より申諭候趣も、其
当座のミにて不取用もの多分ニ相見、(以下略)〟
〈「歌舞伎役者之形容ニ似寄候錦絵は釣し売不致筈」釣し売しない筈との口調からすると、実態としてはあまり守られ
ていなかったようにも思える。同年八月の南町奉行遠山左衛門の北町奉行井戸対馬守宛の相談書にも、以下のように
出ている〉
〝歌舞伎役者之形容ニ似寄候踊絵之類釣し商ひ不致、不目立様可取扱旨、懸名主共申合迄之姿ニて、絵双
紙屋共ぇ為申諭候儀も有之候処、不取用もの多分之由〟
〈踊形容は目立たないようにして売るよう指導されていたにもかかわらず、守られてないというのである〉
☆ 嘉永六年<八月>
◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二六七件 p129)
〝 新和泉町画師(歌川)国芳行状等風聞承探候義申上候書付 隠密廻
新和泉町画師国芳義、浮評等生候絵類板下認候旨入御聴、同人平日之行状等風聞承探可申上旨被仰渡候
間、密々探索仕候風聞之趣、左二申上候、
新和泉町南側 又兵衛地借
浮世画師 芸名 歌川国芳事 孫三郎 五十六才
妻 せゐ 三十八才
娘 とり 十五才
よし 十二才
母 やす 七十二才
外ニ人別ニ無之弟子 三四人
右国芳事孫三郎義は、亀戸町友三郎地借、浮世絵師、芸名歌川豊国事庄蔵先代之弟子ニて、歌舞妓役者
共似顔板下重も之稼方有之候処、天保十二丑年以来、絵類御取締廉々之内遊女・歌舞妓役者似顔御制禁
之御沙汰ニ付、武者・女絵又は景色之絵類類等板元注文受候得共、右絵類ニては、下々市中之もの并在
方商ひ高格別ニ相減候故、国芳義は画才有之者ニ付、奇怪之図板下認候絵類売出し候得は、種々推考之
浮評を生候より、下々之ものとも競買求候間、板元絵双紙屋共格別之利潤相成候ニ付、国芳え注文致シ
候もの多相成候処、右絵類之内ニハ浮評強絶板いたし候へは、猶望候もの多相成、内々摺溜置候絵類高
直ニ競ひ売買いたし候人気ニ至り、板元絵双紙屋共存外之利潤有之仕癖ニ成行候間、兎角異様之絵類を
板元共注文いたし候様相成候ニ付、書物絵双紙懸名主共踊形容之絵柄は為売捌、此踊形容と申立候は、
歌舞妓役者共狂言似顔之図二候得共、名前・紋所を不印売出し候間、奇怪之絵柄ハ凡相止候、然処、踊
形容之似顔絵は豊国筆勢勝レ候ニ付、国芳えは板元より之注文相減、又通例之武者絵・景色等之絵類ニ
ては商ひ薄、旁国芳職分衰候ニ付、図柄工風いたし絵類売出し候へは、下々にて何歟推考之浮評を生シ
候より望候もの多、商高相増候様ニ図取いたし候て、職分衰微不致様ニ仕成し候由(以下略)〟
〈この年、六月発売の国芳画「浮世又平名画奇特」に浮説が立った。町奉行は国芳がこれらの浮説にどの程度関与して
いるのか調べるために隠密を放って国芳の身辺調査を行った。これはその報告書である。(全文は本HP「浮世絵事
典」の「浮世又平名画奇特」か「浮世絵の筆禍(10)」を参照のこと)これによれば、天保の改革で役者似顔絵や遊
女絵を禁じた結果、渡世に窮した業者たちは、国芳の画才を頼んで「奇怪之図」を画かせることにした。世上に浮説
が生ずれば競って買い求めるだろうという計算である。それで世に出たのが「源頼光公館土蜘作妖怪図」(国芳画・
天保十四年刊)などの判じ物。これが目論見通り的中した。だが、幕政を批判するような浮説が取り沙汰されるなど、
巷間では騒動が拡大。放置できなくなった当局が、回収させたり絶版処分にしてみたものの、それが逆に衝動買いを
誘って火に油を注いだかたち。競って買い求めようとする連中が続出。業者も業者で、それを見越して内密に増刷し、
高値で売り抜けようとする輩も出る始末。判じ物に対する監視の目が厳しくなるのは当然であった。そこで打開策と
して考え出したのが踊形容。役者名や紋こそないが、紛れもない役者似顔絵である。改革で禁じられてから約五年、
幕閣も代わったことだし、もうそろそろ大丈夫とでも踏んだのであろうか。弘化三年の春頃から、改の目をかいくぐ
るようにして踊形容を出してみた。すると忽ち大評判。版元や絵双紙屋はこれでまた一息ついた。その代わり、奇怪
な絵柄の判じ物は出回らなくなった。この変化に注目したのが、絵双紙掛の名主や町年寄。上出のように、踊形容の
出版を公式に認めたほうが不正な出版はなくなるだろうということで、容認するよう働きかけたのであった。しかも
容認を望んだのは町方ばかりではない。実は町奉行の市中取締掛の与力たちも望んでいた。そして最終的に町奉行も
それを認めた。ただ認めた理由は別のところにもあった。上出のように、弘化四年五月、町奉行の鍋島内匠頭は、判
じ物について「似顔絵よりは尤不宜筋ニ有之」と、老中阿部伊勢守宛に上申している。そこには、踊形容の役者似顔
絵は判じ物にくらべればまだまし、という判断が働いたものと考えられる。踊形容の容認は、むろん業界に活性をも
たらそうという配慮から生まれたものであろうが、他方では幕政批判の判じ物を封じ込めるための深慮から出てきた
ようにも見える。毒をもって毒を制す。政道に口を挟む判じ物を制するために、風俗を乱すおそれのある役者似顔絵
をもってしたともいえようか。天保の改革が役者似顔絵や遊女絵を禁じたために、結果として判じ物が生まれ、踊形
容をもたらしたのである。ともあれ、この隠密報告によると、この踊形容の容認によって迷惑したのが国芳なのだと
いう。役者似顔絵の得意な三代目豊国には仕事が大挙して舞い込んだが、国芳への注文は減少したかららしい。それ
で失地挽回のため、国芳はまたぞろ判じ物に活路を見いだそうとしていると、報告書は結ぶ。
なお、この「浮世又平名画奇特」に関していえば、巷間に流布した浮説は、ペリーの浦賀来航など、刊行後の出来事
と関連づけられたものも多い。つまり国芳ら制作側の意図とは全く関係のないところで浮説が増殖したのである。実
際のところ、国芳らは公認の踊形容を画いただけなのかもしれない。しかし「源頼光公館土蜘作妖怪図」や「【きた
いなめい医】難病療治」の国芳である。何か意図があって「奇怪な絵柄」を画いているに違いないと思う。ここから
付会が始まり浮説が生ずる。判じ物から生ずる浮説はあたかも虹のようなものであろう。その発生源らしいところに
行ってみても、そこには「奇怪な絵柄」があるばかり、誰もいないのである。これでは取り締まりようもないだろう。
当局は自らの政策のせいで制御しがたいやっかいなものを生み出してしまったのである〉
〈以上、2014/06/28記〉
☆ 安政元年(嘉永七年・1854)
◯『踊形容花競』合巻 一陽斎豊国画 柳下亭種員作 泉市板(嘉永七年刊)(国書データベース)
(版元 甘泉堂和泉屋市兵衛の口上)
〝 乍憚口上
四方の御見物様方 芳睛(おんめ)の属(ふる)ることにつけ 好美の品にあらざれば 求て称誉したまは
ず 錦場玉地に看る花も 言(ものい)はざれば詠(ながむ)るにこゝろなく 彼(か)の豊国大人(うし)が
画ける似顔も得て ねがはくは一言いへなど 好事にかうずを欲(のたま)ふ世と われ知り顔に思ひ着
きたる此さうしは合巻にしき絵 見る随(まま)に動き出せるさまをなせど 誉める君あり誹(そし)る貴
官(おかた)あり 宛(さながら)活ける人物が踊りつ舞つするが如く その形容の色香を競(くら)ぶる高
評を搔きあつめ 錦袖ふるその場の交代(かはりめ)毎(ごと)出板なせば 幾久しく売り出しを 続いて
お求め被下置 御覧の程 伏而(て)奉希上候 以上
板元 甘泉堂敬白〟
〈「踊形容」とは役者の所作事を似顔で画いた錦絵〉