Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ のぼり 幟浮世絵事典
 ☆ 寛保~延享年間(1741-47)   ◯『【寛保延享】江府風俗志』(『近世風俗見聞集』第三所収 )   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝五月節句、男子有家にはのぼり立る事也、此頃のぼりは紙のぼりに、丹緑青の絵具にて、色取、石山源    太に虎、或は金太郎竹ぬき五郎抔(など)、武者絵ののぼりにて、木綿は甚すくなき事也、木綿も二幅よ    り大き成はなかりき、男子有家には大凡(おおよそ)立たる事也、然共人形甚大成事にて、見世を芝抔敷、    築山等こしらへ、是に武者人形錺たる家所々に有し也、夫故外面甚賑し事也〟  ◯『増訂武江年表』1p156(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (寛延年間(1748-50)記事)   〝此の時代より、開帳場に神仏によらず幟を立つる事始まれり〔筠庭云ふ「操外題年代記」享保十六年五    月、国姓爺三度目、天満のひいき組より芝居の表に幟を立てるといへり。やゝふるくより稀には有りし    也〕〟  ◯「絵のぼり」(『嬉遊笑覧』巻六下「児戯」喜多村信節著 文政十三年(1830)自序)   〝『懐子(三)』五月幟「門や又立栄ゆべき紙のぼり」正村 其外『紙のぼり』といふ句多きは 寛永頃は    端午のぼり 皆紙にてありしなり『羅山文集』慶安辛卯五月端午云々「家々蒲を挿し粽を造り 且つ童    児の為 紙幡を立つ」木曽 また『一代女』(六)「五月の処のぼりは紙をつぎて素人絵をたのみ云々」    『五元集拾遺』「なよ竹の末葉のこして紙のぼり」今も田舎にはこれを用ゆ 又『五元集』に【卯月十    七日或人の愛子にねだり申されて】「郭公幟そめよとすゝめけり」と云もあれば 此頃より下ざまにて    も布のぼりは行はれしにや 武者絵の版すりて蘇枋黄汁等にて彩れり 江戸にても鍾馗のぼりは紙を用    るもあれど それも此ごろは少なきにや 版行の絵などは絶たり【奥村文角など墨絵の鍾馗を版にて摺    たる目玉に金箔置たるなどありし】『続山井』「絵にかくや目に見ゆる鬼かみのぼり」風鈴軒 又『色    三味線』に手遊びの幟売あり〟    〈墨絵の鍾馗に奥村政信の名があがる、端午の節句、家々に立つ幟の絵は、浮世絵師が担当したようである。時代がく     だるにつれて、紙製の版画から布製の肉筆へと移っていったが、作画は専ら浮世絵師が担っていたのである〉      参考『集古会誌』(2)「家蔵の絵幟」清水晴風・文 1903年5月刊   (幅一尺八寸(約54㎝)竪五尺四寸(約162㎝)の紙幟 図柄は「和藤内の虎退治」)   〝(上掲『嬉遊笑覧』記事の引用に続いて)鳥居風の板行絵なり。或人此絵を鑑定して鳥居二代清倍の画    きしものなりといふ。されど迂生の見る所にては 同三代目清満の筆ならんと考ふ。或は此紙幟 江戸    のものではあらで 近年迄残りありし地方のものならんと思はるゝ人もあらんが 田舎の紙幟の絵は今    の凧絵の如きものにて 鳥居風のものにはあらず。慥(たしか)にこれは江戸のものたるは疑(ひ)なし。    而して仮りに清満の絵とすれば、享保以後天明前のものにして(清満は天明五年に没す)漸々に衰へ行    し紙幟の残り物なるべし〟〈「迂生」は「小生」に同じ〉  ◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   ◇「堤等琳」の項 ③319   〝堤等琳 号深川斎、江戸ノ産也、叙法橋    二代目等琳の門人なり、雪舟十三世の画裔と称す、一家の画風、骨法を自立して、雪舟流の町画工を興    せしは、元祖等琳を以て祖とす、安永、天明の比より、此画風市中に行れて、幟画、祭礼の絵灯籠は、    此画風をよしとす、当時の等琳は、画風、筆力勝れて、妙手なり、摺物・団扇・交張の板刻あり、仍て    此に列す、筆の達者、尋常の板刻画師と時を同して論じがたし、浅草寺に韓信の額あり秋月と云し比、    三代目等琳に改名せし時の筆なり、今猶存す、雪舟の画法には不似異りといへども、彩色、骨法、一派    の筆力を以て、三代ともに名高し、画く所の筆意、墨色の濃淡、絶妙比類なき画法なり、末、京、大坂    に此画風を学ぶものなし、門人あまたあり、絵馬屋職人、幟画職人、提灯屋職人、総て画を用る職分の    者、皆此門人となりて画法を学ぶ者多し、門人深遠幽微の画法を得てせず、筆の達者を見せんとして、    師の筆意の妙処を失ふ者多く、其流儀を乱せり、世に此画法をのみ、町絵と賤めて、職画と云は嘆かは    しき事なり、雪山は貝細工等種々の奇巧を造りて見物させし事有、【大坂下り中川五兵衛、籠細工ノ後    ナリ】諸堂社の彩色も、多く此人の請負にて出来せし所有、【堀ノ内妙法寺、ドブ店祖師堂、玉姫稲荷、    其他多ク見ユ】近世の一豪傑なり〟    〈江戸市中の寺社には絵馬が、また祭礼・開帳等の野外行事には幟絵・燈籠絵・提灯絵などが付きものであったが、堤     派はそれらの作画を専ら担っていたようである〉  ◯『親子草』〔新燕石〕①83(喜田順有著・寛政九年(1797)閏七月望日序)   〝五月幟の事    五十年程以前【寛延元ノ頃】迄は、紙の大幟ぇ、高砂のぢゝばゝ、真鳥兼道、佐々木梶原などの板行に    いたし候を、赤く色どり候を建て候も間々之有り候、近比は売買にも相見え申さず候、むかしは町家抔    にては、右の板行に致し候紙幟計り建て候処、追々に上のを見習ひ、町家にても、木綿の幟を建て候様    に成行候と相見え、是も紙雛の類にて候、去に依て、今に紙幟を壱本是非交り候て建て候事は、その名    残と存ぜられ候〟    〈「高砂のぢゝばゝ、真鳥兼道、佐々木梶原」は端午の節句に使う幟の図案。長寿を祈願する高砂の尉と姥の図、逞し     い成長を願う武者絵の幟、これらはどうやら古浄瑠璃本から模写したようだ。もっともこうした紙製の幟は寛延元年     (1748)頃までで、寛政九年の当時においては一本立てる名残は残っているものの、すっかり木綿製にとってかわられ     たという〉
   「大友真鳥」 近藤助五郎清春図 (大阪大学附属図書館・赤木文庫「古城瑠璃目録」)      〈東京大学附属図書館の電子版「霞亭文庫」本(仮題〔真鳥兼道〕)の巻末には「享保(空白)年正月吉日 大伝馬三     丁目 うろこがたや孫兵衛板」とある。なお『高砂』も電子版・霞亭文庫で見ることができる。「佐々木梶原」は宇     治川で先陣争いをした佐々木四郎高綱と梶原源太景季のことだが、浄瑠璃本の書名としてはよく分からない〉  ◯『一立斎広重旅日記』(歌川広重著 天保十二年四月十七日記)   (『近世文芸叢書』第12所収 国立国会図書館デジタルコレクション)   〝二間に一間の幟孔明かきかゝる〟  ◯『絵本風俗往来』上編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(31/98コマ)   〝十軒店(けんたな)幟市    十軒店は中店三月の如く、五月物は四月廿五日より五月四日に終る。三、五両市共、大名方・旗本衆並    びに町家の富める家家は前々より調(とゝの)へ、注文御出入にて引き受けて納む、十軒店見世売りは此    の以下の者の需めに応ず、されば品物も店先に飾り並べて商ふは並製多し、乃ち仕入数物なり、もし上    物を求めんとならば、前々より注文し金力を惜まざるにしかずとなり〟  ◯『集古会誌』巻之二(林若吉著 集古会 明治三十六年五月刊)   「雑簒 家蔵の絵幟 清水晴嵐」   〝(竪五尺四寸 巾一尺八寸 紙幟 和藤内の虎退治の図)    爰に掲ぐる紙のぼりは、先年千住に住める花光といふ友より得たる物にて鳥居風の板行絵なり。或人此    絵を鑑定して鳥居二代清倍の画きしものなりといふ。されど迂生の見る所にては同三代目清満の筆なら    んと考ふ。或は此紙幟江戸のものにあらで 近年迄残りありし地方のものならんと思はるゝ人もあらん    が 田舎の紙幟の絵は今の凧絵の如きものにて鳥居風のものにはあらず。慥にこれは江戸のものたるは    疑なし。而して仮りに清満の絵とすれば、享保以後天保以後天明以前のものにして、清満は天明五年に    没す 漸々に衰へ行きし紙幟の残り物なるべし〟〈迂生は小生と同じ〉