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☆ にしゅばん きちべえ 二朱判 吉兵衛浮世絵事典
 ◯『大臣舞考証』〔燕石〕⑤245(山東京伝著・享和四年(1804)序)   〝二朱判吉兵衛伝    道戯の名人中村吉兵衛、諢名を二朱判と云、橘町に住す、俳名一其と云、幇間に妙を得たる者なり、吉    兵衛、小男なれども、業の位上々吉に至る。其頃、乾金の二朱判は、ちいさくて位よき金なれば、なぞ    らへて然はいひけるとぞ。    明和二年八月十六日、享年八十余にて没す、谷中日連宗常在寺に葬す、法名深入院宗禅一其日定〟   ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①70(式亭三馬記・文化八年(1811)四月一日)   〝(雑司谷鬼子母神)本堂左の方なる稲荷の社【地主神のよし】正面より右の方に、中村吉兵衛が奉納し    たりし丹前狂言の額あり、絵師は元祖鳥居清信の筆、    (模写絵に〝正徳六歳丙申五月五日 鳥居清信〔清信の印〕〟〝願主中村吉兵衛〟とあり)    中村吉兵衛は、正徳の頃、上上吉の位付にて、だうけ形の上手なり、異名を二朱判吉兵衛と呼びて、後    年役者を廃て、たいこもちとなりしよし、今の世にいふ江戸神ミといふものいなるべし、    (「大尽舞」のこと及び歌詞あり、中略)〟    〈二朱判吉兵衛は役者としては道化方、後年役者をやめ太鼓持ちとして名を知られた人。また享保の頃、江戸の吉原で     流行した「大尽舞」の創始者としても名を残している。「丹前狂言」の丹前とは花道からの出るときの独特な歩き方     をいうようであるが、この中村吉兵衛が演ずる具体的な狂言名はなんであろうか。下記『武江扁額集』にある斎藤月     岑の摸写参照。大小と編み笠という図柄から不破伴左衛門のようにも思えるのだが〉  ◯『還魂髪料』〔大成Ⅰ〕⑫210(柳亭種彦著・文政七年(1824)脱稿・同九年刊)   〝中村吉兵衛は異名を二朱判(ニシュバン)吉兵衛とて、世にしられたるかぶきの道化方なり〟    (千年飴売りの一枚絵の縮図あり。画中に)    〝ぶしゆうとしまのこおり ゑどこびき町 せんねんじゆめうとう いとびん せんねんなりけり                                   中村吉兵衛                              いがや板   為一縮図〟   〝中村吉兵衛(ナカムラキチビヤウヱ)千年飴七兵衛(センネンアメシチビヤウヱ)に打扮(ヤツシシ)肖像(ニガホヱ)    〔割注〕享保年間の一枚絵なり、丹黄しるの類にて色どれり〟   〝木挽町とあれば森田座なるべけれど、何といひし狂言か未考〟    ◯『武江扁額集』(斎藤月岑編・文久二年(1862)自序)   (正徳六年(1716)二月奉納。月岑の識語から画題を「二朱判吉兵衛」とする)    落款等 〝絵師〈以下落剥〉〟〝所願成就 皆令満足〟〝中村吉兵衛〟〝正徳六歳丙申二月吉日〟    識語 「雑司谷稲荷社 鬼子母神境内 横四尺余 嘉永五子初冬縮図」    「俳優中村吉兵衛 諢名(アダナ)二朱判ガ納タル処ナリ。今ヲ去ル事百(空白あり)年ノ昔ナレド、其質     朴オモフベシ、彩色剥落シタルトコロ多シ、絵師ノ名剥落シタレド鳥居何某ナルベシ。此額近キコロ     迄、稲荷社ニ掛テアリシガ、万延中普請ノ後見ヘズ」    〈これは文化八年(1811)、式亭三馬がみたものと同じ扁額である。ただ絵師名が落剥、奉納の月日がなぜか食い違って     いるのだが〉
    『武江扁額集』「中村吉兵衛(仮題)」鳥居清信画(国立国会図書館「近代デジタルライブラリー」)  ◯『見ぬ世の友』巻十五 東都掃墓会 明治三十四年(1901)十一月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻14-21 14/76コマ)   〝廃墓録(其四)兼子伴雨     二朱判吉兵衛之墓    二朱判吉兵衛、本姓は中村道外方の名人にして渾名を二朱判と云ふ、小男なれど業の位上々吉なるを以    て、其頃乾金の二朱判は小なりと云へど位よき金なりしを以てなぞらへ、然(し)か呼びけるとぞ、俳名    一其、日本橋橘町に住す、正徳三年より寛保二年まで三十一年間舞台を勤む、酒席を取持つに妙を得て    俳優の傍ら幇間を勤め居たりしが、劇場より身を引くや浅草黒船町に引移り、吉原へ遊客を伴ふを業と    し、得る処の金銭衣類は己れ事欠かぬのみを残して、余は貧者に施行するを以て無上の楽とせしとか、    明和二年八月十六日、寂光の浄土に◎けり、行年◎十◎、谷中日蓮宗感応山常在寺に葬りしが、維新以    後、無情の売僧が為めに鬻がれぬ、古墳誌に墓◎あり、◎して以て未だ知ざる人の参考に資せん、墓は    兜巾形棹石とも三段、棹石正面に分銅の中に上の字を◎せし定紋及び深人院宗禅一其日定居士と刻せり〟