錦絵新聞(新聞錦絵)画工一覧(浮世絵文献資料館作成)
☆ 明治七年(1874)
◯ 錦絵版『東京日日新聞』の開版予告 明治七年(東京大学明治新聞雑誌文庫)
〝東京日日新聞大錦
一蕙斎芳幾画図 数号続
編輯記者六名左ノ文間ニ境界ヲ設ケテ戯号ヲ掲グ
山々亭有人
知見(ちけん)を拡充(かうぢう)し開化(かいか)を進(すゝむ)るハ新聞(しんぶん)に無若(しくハなし)。
該(その)有益(いうえき)なるハ更(さら)に喙(くちばし)を容(い)るべからずと。投書(とうしよ)の論
(ろん)の始(はじめ)に記(かけ)る定例(おさだまり)の文章(もんく)に拠(よ)り。童蒙(どうもう)婦女
(ふじよ)に勧懲(かんちよう)の道(みち)を教(おしゆ)る一助(いちじよ)にと。思(おも)ひ付たる版元
(はんもと)が家居(いえゐ)に近き源冶店(げんやだな)に。名誉(めいよ)ハ轟(ひゞき)し国芳(くによ
し)翁(おう)が。門弟中(もんていちう)の一蕙斎(いつけいさい)芳幾(よしいく)ハ多(た)
點化老人
端(たん)により。壬申(おとゝし)已来(このかた)揮毫(きがう)を断(た)ち。妙手(みやうしゆ)を廃(す
て)しを惜みしに。中絶(ひさしぶり)にて採出(とりだ)したれバ。先生(せんせい)自(みづか)ら拙劣
(つたな)しと。謙遜(ひげ)して言(い)へど中/\に往昔(むかし)に弥(いや)増(ま)す巧(たくみ)の丹
青(たんせい)。写真(しやしん)に逼(せま)る花走(四字読めず)の。新図(しんづ)を穿(うが)ち旧弊(き
うへい)を洗(あら)ふて日毎(ひごと)
温克堂龍吟
に組換(うへかへ)る。鉛版器械(えんばんきかい)の運転より。神速(はやき)を競(きそ)ふて昨日(きの
ふ)の椿事(ちんじ)を。今日(けふ)発兌(うりいだ)す日々新聞(にち/\しんぶん)。各府県下(かくふ
けんか)の義士(ぎし)貞婦(ていふ)。孝子(こうし)の賞典(しようてん)凶徒(けうと)の天誅(てんちう)。
開化(かいく(わ))に導(みちび)く巷談(かうだん)街説(がいせつ)。遺漏(もらす)ことなく画(かけ)た
れ
百九里散人
バ数号(すがう)をかさねて御購求(おんもとめ)愛顧(あいご)を冀(ねが)
(図)山人
ふと蔵梓主(はんもと)に換(かはつ)て寸言(ちよこ)と陳述(のぶ)る者ハ東京(とうけい)木挽坊(こび
きちやう)に寄寓(きぐう)する隠士
転々堂主人
定価 一葉ニ付 壹銭六厘
(東)京人形町通り/地本絵草紙問屋 具足屋嘉兵衛〟
東京日日新聞大錦 (東京大学明治新聞雑誌文庫)
〈新しい形態の錦絵の登場である。明治5年(1872)創刊の『東京日日新聞』の記事を元ネタに、山々亭有人ら(条野伝平)
六名の戯作者が短い物語に仕立て、それに芳幾の挿絵を添えて絵解きとした。つまり今風に言えば、ニュースのショ
ートストーリー化とイラスト化である。上掲の「錦絵新聞(新聞錦絵)画工一覧」をみれば分かるが、この種の板元は
江戸の場合いわゆる地本問屋、つまり錦絵や合巻を出版してきた問屋がほとんど、しかもここでも文を担当するのは
戯作者で絵は浮世絵師、さらにいえば木版の製版は彫師で印刷は摺師。してみればこの錦絵『東京日日新聞』は従来
の製作スタッフとプロセスを経ているわけで、おそらく版元の具足屋としてみれば、錦絵や合巻を出版するのとなん
らかわりはないと思っていたのではないか。
文明開化の新時代、「新聞」というニューメディアの誕生を受けて、江戸から続く従来の出版界が、それへの対応とし
てひねり出したのがこの「錦絵新聞」なのだと思う。個人的には「錦絵新聞」はニューメディアとしての「新聞」とは同じ
ものではないと思っている。記事に後れてその絵解きを出すという行為自体がすでに「新聞」社のものではない。事実
を速報するという姿勢がそもそもないのである。それよりその事件に潜む異常性・怪奇性などに好奇の目を向けると
いう点では週刊誌により近いといえるのではないか〉
☆ 明治八年(1875)
◯「皇国名誉君方独案内」番付(日明社 明治八年刊)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)
〝新聞大錦絵 人形町 具足屋嘉兵衛/団扇 小伝馬町 幸山堂茂兵衛〟
〈この「新聞大錦絵」とは具足屋福田嘉兵衛が明治7年8月から発行したいわゆる新聞錦絵の『東京日日新聞』。上掲のチラ
シはその発刊に先立って配られたもの。番付に載るくらいだから大いに持て囃されたのである〉
◯『平仮名新聞稚絵解(ひらがなしんぶんおさなえとき)』初号 梅堂編 国政画 近江屋久治郎板(4月官許)
(国立国会図書館デジタルコレクション)※ 原文は全ての漢字に読み仮名あり
〝今世に広く行る新聞紙を閲するに、居ながら世間(よのなか)の風話(はなし)を見聞(みきゝ)、無智蒙昧
の徒(ともがら)もおのづとそれより発明し、仁義の道におもむくも、這(こ)は皆開花のいさほしなり。
故に各社の新聞を種となし、文意の解しがたきも有らんかと、読得やすく平仮名に直し、これに画を加
へ児童婦女子の為に一部の草紙となしぬ。 画工 梅堂国政誌〟
〈新聞の記事に材を取り、ルビ付きの漢字から漢字を削って平仮名のみとし、それを画の回りに配置したのであるから、
これはいわゆる小新聞の合巻化である。児童婦女子が読みやすいように、漢字を削り絵を加えたという。絵はまだし
も、現代人の感覚からすると、漢字の削除はむしろ読みにくくなるのだが、挿絵と平仮名からなる合巻に慣れ親しん
だ人々にとってはちがうのだろう〉
☆ 明治十二年(1879)
◯『水錦隅田曙』初編(梅堂国政画 伊東専三著 辻岡屋文助板 明治十二年刊)
(国書データベース)⑤:『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』〔日本書誌学体系67・近世文学読書会編〕
(伊東専三自序)「出板御届 明治十二年五月八日」
〝此書は有喜世(うきよ)新聞第三百三拾号(本年二月二十五日)より、題を設け、章を重ねて説き続きし、
事は慶応の末年に発(おこ)り、本年の初めに畢(おは)る、いと長々しき物語も、第三百八十一号(本月
十九日)の紙面にて、大団円の局を結び、筆を閣(ママさしお)き吸煙(いつぷく)と、煙草薫らす其折しも、
金松堂の主個(あるじ)来りて、是を梓に彫(ちりば)めんと、乞はるゝ侭にいなみもせず、又禿(ちび)筆
を取直し、夫が題号もそのまゝに、水錦と名附ツゝ、例の無草(ぶつゝけ)稿に書き記し(以下略)〟
〈地本問屋の新聞利用は合巻の世界でも起こっていた。この『水錦隅田曙』は『有喜世新聞』連載小説を辻岡屋の依頼で
合巻化したもの。この年、新聞から材をとって合巻化した作品は以下の通り〉
『有喜世新聞』
『綾重衣紋廼春秋』 伊東専三著 梅堂国政画 辻岡屋文助板 ⑤「出板御届 明治十二年五月八日」
『東京絵入新聞』
『東京奇聞(其名も高橋毒婦の小伝)』岡本勘造編 桜斎房種画 綱島亀吉板 ⑤「出板御届 明治十二年二月三日」
『島田一郎梅雨日記』岡本起泉編 桜斎房種画 綱島亀吉板 ⑤「出板御届 明治十二年六月三日」
『かなよみ』(新聞)
『高橋阿伝夜叉譚』仮名垣魯文著 守川周重画 辻岡屋文助 ⑤「出板御届 明治十二年五月八日」
◯『読売新聞』(明治12年3月20日付
〝芝三島町の松村甚兵衛の家にて出版した『仮名読新聞』 第八百八十六号と題して 西の久保神谷町の
医者何某が雇女の 何膜とかを破ッた事を書いた錦絵は余り醜体ゆゑ一昨日発売を差止められました〟
☆ 明治二十五年(1892)
◯「読売新聞」(明治25年12月19日記事)〈(かな)は原文の振り仮名〉
〝歌川派の十元祖
此程歌川派の画工が三代目豊国の建碑に付て集会せし折、同派の画工中、世に元祖と称せらるゝものを
数(かぞへ)て、碑の裏に彫まんとし、いろ/\取調べて左の十人を得たり。尤も此十人ハ強ち発明者と
いふにハあらねど、其人の世に於て盛大となりたれバ斯くハ定めしなりと云ふ
凧絵の元祖 歌川国次 猪口絵元祖 歌川国得 刺子半纏同 同 国麿
はめ絵同 同 国清 びら絵同 同 国幸 輸出扇面絵同 同 国久・国孝
新聞挿絵同 同 芳幾 かはり絵同 同 芳ふじ さがし絵同 同 国益
道具絵同 同 国利
以上十人の内、芳幾・国利を除くの外、何れも故人をなりたるが中にも、国久・国孝両人が合同して絵
がける扇面絵の如きハ扇一面に人物五十乃至五百を列ねしものにして、頻りに欧米人の賞賛を受け、今
尚其遺物の花鳥絵行はるゝも、前者に比すれバ其出来雲泥の相違なりとて、海外の商売する者ハ太(い
た)く夫(か)の両人を尊び居れる由〟
〈同じ記事が本HP「浮世絵師総覧 う」歌川派の項『古画備考』にもあり〉
☆ 大正以降(1912~)
◯『浮世絵』第八号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「浮世絵と新聞の挿絵」石島古城(33/48コマ)
〝(前略)新聞の挿絵を用ひ始めたのは明治八年に発行された東京絵入新聞で 今から四十年程の昔であ
る、而して其に筆を執つたのは落合芳幾で 実にこれが我国の絵入新聞の最初で 新聞に挿絵を描いた
最初の人であつた。同人は其画家たると同時に同社創立者の一人であった 我が絵入新聞の創立者と新
聞挿絵の創始者として落合芳幾の名は明治の浮世絵史に特筆せねばならない(中略)
併しながら歌川系から出た芳幾の技巧は依然俳優の似顔以外に出る事は出来なかつた、文明の公器た
る新聞紙を装飾すべく余りにふさはしからざるものであつた、時に挿画界に大飛躍を試み 当時の画風
に一変化を与へたのは月岡芳年である、芳年の運筆は極めて強い 恰(まる)で木片(こつぱ)でも接合せ
た様な極端な癖を持つてゐたので、一面から見れば野鄙ではあるが キビ/\した江戸つ子の式の筆到
は 活気に乏しい歌川一流の画風に幾分見厭(あ)きた時人の意向に投じた為、其後続々発刊した各種の
新聞挿絵は殆んど芳年風とも謂ふべき一派に風靡されたのである、私は芳幾の功績を称すと共に明治年
間に於ける芳年の斯界に貢献した効果をも挙げて置きたいと思ふ(後略)〟
〈以下の画工名を列記する。画工名は「錦絵新聞(新聞錦絵)画工一覧」に収録〉
◯『明治奇聞』宮武外骨編 半狂堂 大正十四年(1925)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇二編「錦絵新聞の流行」三月刊(19/28コマ)
〝江戸時代の名物であつた錦絵も、東京時代に成つては西洋式の印刷画に圧倒されて衰運に帰したが、こ
れを開明の新聞と調和させて回復しやうと案出した者があつて、明治七八年頃に錦絵新聞といふものが
数百枚出版に成つた
その題には『東京日日新聞』とか『郵便報知新聞』とか大書し、傍らに第六百八十七号とか第四百五十
二号とかあるので、彩色絵としての新聞が、そんなに号を重ねて居たやうに見えるが、実は其号数の新
聞紙上にあつた記事を略記して、月岡芳年や落合芳幾筆の錦絵を加へたものである
此流行が大阪に波及して、明治八年に大阪で出版した錦絵新聞が数百枚ある、此方は一枚絵として一号
より二号三号と号を追ひ、題名も『大阪錦画新聞』とか
大阪錦画日々新聞 諸国日々新聞 新聞図会
などいふもので、各地の新聞を種にして、いづれも大錦絵半截の小型物で出版した、絵は笹木芳瀧、長
谷川小信、鈴木雷斎、後藤由芳景、茂広等の筆である
此流行は数年止まないで、東京に於ても種々の錦絵新聞が出た、それに付、明治十二年三月二十日発行
の『東京曙新聞』第千六百三十二号に左の如き記事も出て居る
「芝三島町二番地松村重は仮名読新聞と題し、同新聞雑誌中にある医師某が強姦する体を錦絵に板刻
したるは、図画の淫行に渉るを以て、内務省図画局より昨日発売を禁止されたり」
又明治十年六月二十九日発行の『読売新聞』第七百卅二号に
「大阪にて近々錦絵旭新聞といふが出版になるといふ」
とあるのを見て、大阪に於ても錦絵新聞の流行が数年止まなかつた事を察するに足る〟
◇四編「東京ミヤゲとしての新聞紙」十月刊(20/29コマ)
〝明治八年三月三十一日発行の『朝野新聞』に左の一節がある
「昨今各地ノ旅客、本社ニ立寄リ数部(同一のもの)ノ新聞ヲ購求スル者数多アリ、客皆曰ク、往昔
府下ニ来レバ必ズ錦絵ヲ求メテ故郷ニ帰リ、是ヲ江戸土産ト称シ親戚明友ニ贈ルニ、皆其美ヲ賞シ
テ珍重セリト云フ、今之ニ換ユルニ新聞ヲ以テスト云フ、嗚呼文明トヤイハン開化トヤイハン」
徳川時代に江戸見物のミヤゲとして錦絵が盛んに行はれたのは、一に交通不便の際とて、重い荷物にな
らぬ点、二にカ華麗な風俗絵として珍重されたが為めである、其錦絵が時勢の影響を受けて衰微した折
柄、片々たる用紙ズリの新聞が錦絵に代つたのは、一にマダ交通不便で、汽車は東京横浜間、東北は熊
谷までへも開通しない時代であるから、ヤハリ重い荷物にならぬ新聞紙、百枚買つても百目の重量、二
は「東京には新聞といふものが出来て、作日の事を今日しらせる」など云つて、村の杢兵衛太郎作まで
が珍らしがつた為めであらう、これに就て考証の不足を感じて居るのは、本書第二年三十一頁に記した
「錦絵新聞の流行」と題する一條である 〈上掲 二編「錦絵新聞の流行」参照〉
「江戸時代の名物であつた錦絵も、東京時代に成つては西洋式の印刷画に圧倒されて衰運に帰したが、
これを開明の新聞と調和させて回復しやうと案出した者があつて、明治七八年頃に錦絵新聞といふ
ものが数百枚出版に成つた」
これは前掲『朝野新聞』の記事を見なかつた為めの誤想である、此錦絵新聞が流行するに至つたのは、
江戸時代の復興として歓迎された趨勢もあらうが、錦絵新聞を案出したのは、自発的に開明の新聞と調
和させやうとしたのではなく、前掲『朝野新聞』所載の如き事実が、東京の各新聞社にあつたので、昔
の錦絵同様に新聞紙を東京ミヤゲとするのならば、其新聞の記事を錦絵に描いて、原新聞の標題と号数
を入れて発行すれば、古今結合二者兼用で、開花時代の東京土産として絶好のものである。売れるに違
ひない、儲かること請合といふのが岸田吟光あたりの発案であらう
それで『東京日々新聞』の錦絵新聞のみでなく、模倣的の
郵便報知新聞 朝野新聞 かなよみ新聞 東京毎夕新聞と題せしものも出来たのは、選択自由
の供給であらう
後に『東京絵入新聞』が錦絵を付録とするに至つたのは、十九年十月創刊の日報社系『やまと新聞』が
右の錦絵新聞を踏襲して好評を得たのにマネたのである〟
◯『こしかたの記』(鏑木清方著・あとがき昭和三十六年一月)
◇「やまと新聞と芳年」p34(中公文庫)
〝(「やまと新聞」の)錦絵附録に似たものは、これより十年程前に「東京日々」と「郵便報知」の新聞
記事に出たものの中から、所謂ニュース・バリューのあるものを錦絵にして画中に解説を加えたものが
出たことがある。「日々」は芳幾、「報知」は芳年であった。戦争の硝烟がまだ去りやらぬ時世が反映
してか、陰惨な画面が殊に芳年のものに多かった。これは附録のように見えるけれど、出版者が新聞社
と相談ずくで売り出したもののように思われる。この版行は明治九年前後であるが、芳年は魁斎と名乗
った頃の国芳風から蝉脱して極端な写実に急転し、西洋新聞の銅販画の影響を露骨に取り入れ、皺と陰
影の多い手法を用いたのが、いかにも不穏な時代相を色濃く表している。芳年とは違って穏和で常識人
らしい芳幾までが、この時分はそれにかぶれているかに見える〟
〈ここに云う「錦絵」がいわゆる「錦絵新聞」。「画中に解説を加えたもの」とあるから、鏑木清方はこれをニュース
の絵解き、つまり新聞ではなく錦絵と捉えていたようだ〉
◯「錦絵新聞とは何か」土屋礼子著
(『ニュースの誕生』所収。木下直之・吉見俊哉編 東京大学総合研究博物館 1999年刊)
〝錦絵新聞とは、明治7年から10年頃まで多数発行された木版の多色刷り版画で、「新聞」すなわち、
新しく聞き知った出来事=ニュースを伝える文章と、「錦絵」と呼ばれた浮世絵版画が合体した出版
物である。その最初は、明治5年に創刊された日刊紙「東京日日新聞」の記事をもとにした錦絵のシ
リーズである〟
〝錦絵新聞は、もとは絵草紙という一つの名称のもとから流れ出た絵本、錦絵、読売瓦版という、近世
の視覚メディアを再統合した印刷物であるといえよう。視覚的な事件報道という点で先行メディアで
ある読売瓦版が、不定期発行で、ほとんど単色の粗末な非合法に近い出版物であったのに対し、錦絵
新聞はその報道的性格を吸収し乗り越えた、迅速で定期的なニュース媒体であった。また、錦絵新聞
は絵本の持つ物語性や教訓の枠組みを引き継ぎ、その中に新しい明治の世相を展開して見せた。そし
て錦絵新聞は浮世絵版画の継承的発展であり、錦絵の技術を徳川政権下では禁じられていた時事報道
の領域へ解き放ち、色彩豊かでわかりやすい、文字の読めない者をも引きつける魅力を持った視覚的
情報媒体となった。錦絵新聞は錦絵に潜在していた視覚的報道の機能を最大限に引き出した形態であ
り、また錦絵が新聞という新たなメディアと競った最初で最後の舞台であった。錦絵新聞が展開した
後の明治10年代後半以降、錦絵は視覚的報道の主役からすべりおち、「田舎向きの安物」と質の低
下が嘆かれるほどに衰退してゆくのである。
一方で、錦絵新聞は近代以降のポピュラー・ジャーナリズムの出発点でもあった。庶民を話題の中心
に据えた実名報道とその視覚化は、後の漫画、紙芝居、グラフィック雑誌、テレビ等の視覚メディア
につながる表現形式を開拓したといえよう。しかし、明治9年後半から西南戦争の頃に錦絵新聞は最
盛期を過ぎ、ニュース・メディアの役割を実質的に終えた。その大きな原因は、明治7年11月に創
刊された「読売新聞」をはじめとする総ふりがな付きの小新聞(こしんぶん)が東京と大阪で普及し、
それらに錦絵新聞の読者層が移行吸収されていったためだと思われる。なぜなら小新聞は、錦絵新聞
と同じく漢字漢語の読めない「児童婦女子」を読者対象とし、戯作者たちが書く記事の話題と表現も
共通しており、しかも情報量と速報性では錦絵新聞にまさり、相対的に安価であったからである。ま
た、明治8年4月に創刊された「平仮名絵入新聞」が先駆けて実践したように、有名な浮世絵師たち
が小新聞に記事の挿し絵を描くようになったのも影響したであろう。やがて忘れ去られた錦絵新聞が
再び見いだされるのは、大正時代になってからである〟