浮世絵の真贋 本Hp「浮世絵事典」【う】
◯『反古のうらがき』〔鼠璞〕中p83(鈴木桃野著・嘉永元年~同三年記)
〝大雅堂
此人の画、東都にあるはこと/\くいつはりなるよしは、みな人の知る事なれども、其門人どもが工み
みに似せたるは、いかにしてもしるよしなしとぞ。京摂の間は其もてはやしも又甚しく、其門人といへ
ども、あざむかれて偽物を賞翫するもあり。
(大雅堂没後、門人達二三十人がそれぞれ師の手筆を持参して追福の会を催した。酒が入り宴たけなわ
というところに「大雅堂の門人なれども、師の世にいませる頃より、師の偽筆をかきて、銭金にかゆる
をもてなりはひとなして」いた何某が、招待状もなしに姿を現した。門弟の多くが彼の参加を拒んだが、
長老の「師の門人に疑ひもなく、殊に師の不興蒙りたりといふにもあらねば、師の追福の為に催せし会
に、数に加へじといふ理なし」という一言で、仲間に入れることにした。持参した画幅が広座敷に掛け
られ、おのおの見比べていると、件の何某曰く)
今見たりし中に、おのれがかきたる幅、三幅迄見ゆるぞといふにぞ、皆人々おどろきて、にくきかれが
広言かな、師の門人がまさしく師に授りし画なるに、彼れが筆ならんいわれなし、いづれをか自からの
筆といふや(と問い詰めると、某は)第幾番目の幅より、又二つ置ての幅、末より幾番目の幅、此三幅
はみなおのれが筆なり、但し其持主はしらねども、親しく師の筆とりて画きしをみて授りたるにはおそ
らくはこれあるまじ、市にて求め給ひつるならん、さあらんには正しき師の筆とはいゝがたし(と逆襲
した。すると)みな目を見合ひて辞なし。但し市にて求るにも、一人の眼に極め兼たれば、同師の友ど
ち助け合て見極めたることゞもなれば、今更に師自ら授け玉へるなりともいつはり兼て、悪しとは思へ
ども、争ひにもならで休みたり。
かゝればこの何某が偽筆は、おさ/\師にもおとらざりけるが、同師の友にさへ見あやまる程ならば、
他人の見て真偽を言ひ争ふは益なきことぞと、京師より帰りたつ人語りける。
【大雅堂、文晁、応挙ナドノ画ハ偽シ易シ。椿山ノ画ニ至テハ、天真爛漫実ニ企及スベカラズ。夫サヘ
近時偽物オビタヾシクアリテ、庸凡ハミナアザムカルヽ也。余鑒裁ニ暗シトイヘドモ、椿山の画ニ至ツ
テハ、闇中模索スルモ失ハジ】〟
〈市中で求めた大雅堂を、門弟同志で真筆と見なした以上、たとえ贋作者が何を言おうと、もはや取り消しはできない
としてうやむやにしてしまった例である。京都からこの話を持ち帰ってきた人の反応も、現代人からは不思議なもの
である。師匠にも劣らない伎倆の持ち主の偽筆であるから、真偽を言い争うのは無益だと。しかし、おそらくこうし
た鑑定側と受容側のあいまいな姿勢が、偽筆の跋扈をゆるし、偽筆をいつの間にか真筆の側に組み込んでしまうので
あろうと思う〉