Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ にせげんじいなかむらさき 偐源氏田舎紫浮世絵事典
 ☆ 天保十三年<八月>      筆禍 合巻『偐紫田舎源氏』(柳亭種彦作・歌川国貞画)       処分内容 板木没収            ◎作者 柳亭種彦(高屋彦四郎として組頭より譴責)            ◎板元 鶴屋喜左右衛門 板木没収        処分理由 不明       〈これについて、鈴木重三氏は「理由は今なお判明しないが、合巻装丁の過美はある程度かかわったかもしれない」        としている。(「新日本古典文学大系」所収『偐紫田舎源氏 下』解説)〉    〈六月、『偐紫田舎源氏』の板元・鶴屋喜右衛門が町奉行に召喚され、作者柳亭種彦の原稿料を尋問されたうえ、すべ     ての板木を提出するよう命じられた。ところが、当時の鶴屋は家運が傾いていたようで、板木を質に入れていた。そ     こにこの命令。辛うじて手当をして揃えて奉行所に差し出したところが、その後沙汰なし。絶板という噂も流れてい     るが、未だ落着せずという途中経過である〉    ◯『馬琴書翰集成』第六巻・書翰番号-8 ⑥42(八月二十一日 殿村篠斎宛書翰)   〝種彦事、当七月下旬ニ致病死候。亓(其の古字)ハ廿七八日の頃にて、『田舎源氏』の板を、鶴屋より町    奉行所ぇ差出候日と同日の由ニ候。是等、一奇と人々申候。先便得御意候、彼人之身分ニ付、彼是噂有    之候得ども、亓は為差事ニてハ無、彼人之身分ニ障無之由聞え候。御支配ニよく被思候や。先頃小普請    支配某殿、種彦ヲ被呼、其元家来ニ種彦と云者アリ。不宜者ニ候間、早々暇遣し候得と被申候由ニ候。    此故ニ、奉行所ニて『田舎源氏』之作者の御尋ハ無、只板をのミ御取上ニ成候間、板元鶴屋も右ニ准じ    て御咎メハ無、只絶板せらるゝのミならんと、其毎ハ申候。種彦六十許歳なるべし、子息無之候間、死    の字ハ伏置て、急養嗣を尋る成べし。委敷事ハ不知候得共、是等ハ正しき実説ニ候〟        〈種彦の処遇については、彼(高屋彦四郎)が御家人ということもあって、市中の関心は高かったようだ。小普請組頭     の処理は実際気の利いたものだった。組頭は柳亭種彦を旗本高屋彦四郎の家来と見なし、行いの宜しからざるをもっ     て暇を出すよう命じたのである。これで高屋家の存続に関わる危機は回避された。またこの処理が結果的に板元鶴屋     に影響が及んで、板木は没収になったもののお咎めは免れた。もっとも絶板になっただけでも鶴屋にとっては再起不     能に近い大打撃ではあったのだが。(下出『きゝのまに/\』参照)なお、種彦の忌日について、馬琴は七月二十七     ・八日とするが、墓碑は七月十九日である。六月に人情本・好色本の一件(為永春水の手鎖)が落着し、役者絵や遊     女絵を禁じる厳しい町触が出て、わずか一ヶ月後のことであった。ただ死因については病死説・切腹説等あってはっ     きりしないようだ。馬琴によれば、その死亡日はちょうど板元の鶴屋が「田舎源氏」の板木を奉行所に提出した日と     同じだったという噂も立ったようだ。市中は種彦の死が鶴屋の没落をも意味すると受け取ったのかもしれない〉    ◎参考(柳亭種彦一件)   △『藤岡屋日記』第二巻 ②284(藤岡屋由蔵・天保十三年記事)   〝七月十九日 戯作者柳亭高谷(屋)種彦卒。称彦四郎、号薪翁(足薪)、赤坂浄土寺ニ葬。      辞世 散るものに極る秋の柳かな〟
    「柳亭種彦肖像」 国貞画(早稲田大学・古典籍総合データベース・岩本活東子撰『戯作六家撰』)     △『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥145(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝(六月始め)絵草紙屋ニ芝居役者并遊女絵悉く停止、人情本と云中本の作者為永春水入牢、柳亭種彦    【高屋彦四郎】は頭【永井五右衛門】より呼出し、其方ニ柳亭種彦と云者差置候由、右之者戯作致事不    宜、早々外へ遣し相止させ可申と云渡たりとかや、春水が作は元より柳亭が田舎源氏など皆絶板と成、    【板本横山町鶴やハ元より家業難渋ニテ、源氏の草さうしを思ひ付て、柳亭を頼み作らせしが、幸に中    りを得て本手多く入て、段々つゞき出し售りければ、やゝ生活を得し処、其板を失ひ忽没落せり、柳亭    も此本の作料に利有て、元の住所より遥かによき家を求て移住、此節は大病後ニて、此事有て弥以わろ    く、遂に身まかれり】〟    〈地本問屋の名門鶴屋は、傾きかけていた家運がこの「田舎源氏」のヒットで持ち直しつつあった。板木没収はその矢     先の災難であった。「草双紙田舎源氏、鶴喜板本ニて種彦作、国貞画ニて大評判ニて、三十八篇迄出しが、此度絶板     ニなる也、正本仕立も同く絶板也、右絶板故ニ鶴屋喜右衛門ハ潰れる也」(「正本仕立」やはり種彦作・国貞画の合     巻『正本製』)これは藤岡屋由蔵の記事である。(『藤岡屋日記』第二巻②419(藤岡屋由蔵・天保十五年(1844)記)     本HP「浮世絵辞典」鶴屋喜右衛門の項参照)〉     △「偐紫田舎源氏と水揚帳」(宮武外骨著『筆禍史』p139)   〝柳亭種彦著なり、『戯曲小説通志』に曰く     田舎源氏は頗る傑作として当時に持囃されたり、此書たるや、源氏物語を根拠として時代を近古に取     り、文詞の優麗、語句の精妙は云ふに及ばず、数十婦女の容貌気質を写出して、各種各様、姿を換へ     態を異にし、筆々変転、絶えて類似の痕跡だに露はさゞるが如き、実に草双紙中の覇王たり(中略)     然れども種彦が禍を買ひしも、亦此田舎源氏に在り、天保十三年閣老水野忠邦の弊政を釐革し、風紀     を匡正するや、卑猥の稗史小説を挙げて悉く絶版を命ぜしが、此際人あり上告して云く、種彦幕府の     禄を食み徒に無用の文筆を弄し、其著はす所の田舎源氏は、托して以て殿中の陰事を訐きたるものな     りと、是に於て種彦亦吏の糾訊する所となれり、然れども組頭の弁疏頗る理ありしかば、事暫く解く     ることを得たり、此より種彦禍の其身に及ばんことを憂ひ、恐懼の余り終に病を発し、同年七月十八     日を以て歿す、享年六十歳。    又『史海』には、柳亭種彦が其著『水揚帳』といへる春画本のために、糾問を受けんとせし事ありし旨    を記せり、又種彦は病死に非ずして自殺なりとの説あり、大槻翁の談に曰く      柳亭種彦自殺説      柳亭種彦は本名高屋彦四郎といふ旗本の士であつたが、最初田舎源氏のために、高屋彦四郎名義宛の     差紙(呼出状)が来たので、奉行所へ出頭すると、奉行遠山が「其方の宅に柳亭種彦といふ戯作者が     居るそうであるが、近年如何はしい作本をいたして不都合であるから、其方より以後はさやうの戯作     相成らぬやう申聞けよ」と達せられた、役人の方では、彦四郎と種彦とは同人であることを知つて居     ながらの訓戒であつたのだ、そこで当日種彦は、唯々恐縮低頭で引下つたが、さて其後『水揚帳』と     いふ春画本も、種彦の作なりと告げる者があつたので、奉行所から再び差紙が来た、すると種彦大き     に愕いて、今度は迚も逭れられまいが、何とか方策はあるまいかと心配の極、兎も角もとて、病気届     をして出頭の延期を願つた、ところが「病気の由なれどもたつて出頭これあるべし」と重ねての差紙     が来たので、種彦は其夜終に自殺をして、昨夜病死いたし候といふ死亡届をなさしめたのであるそう     な、しかし、種彦の門人梅彦などは此説を非認して居たが、某々等は自殺を事実として居た云々       〔頭注〕淫書研究家の著作    柳亭種彦は淫書研究家たりしなり『春画好色本目録』といへる元禄前刊行の絵入本解題の著あり、また    『水揚帳』のみならず『春色入船帳』外数種の淫本をも著作して秘密に出版せしめたりといふ              源氏絵の大流行    『田舎源氏』は徳川大奥の状態を写せしものなりとて、満都の歓迎を受け其売行も非常なりしかば、当    時その『田舎源氏』によれる源氏絵といふ錦絵大に流行せり              田舎源氏の版元    天保十三年寅六月、合巻絵草紙田舎源氏の板元鶴屋喜右衛門を町奉行所へ召出され、田舎源氏作者種彦    へ作料何程宛遣し候哉を吟味与力を以御尋有之、其後右田舎源氏の板残らず差出すべしと被仰付候、鶴    屋は近来渡世向弥不如意に相成候故、田舎源氏卅九編迄の板は金主三ヶ所へ質入致置候間、辛くして請    出し則ち町奉行所へ差出候処、先づ上置候様被仰渡て、裁許落着は未だ不有之候得ども、是又絶板なる    べしと云(著作堂雑記)〟      〈『偐紫田舎源氏』の画工はすべて歌川国貞。『水揚帳』は婦喜用又平(国貞)画で天保七年刊。『春色入船帳』は九     尻亭佐寝彦(種彦)篇・一妙開程よし(国芳)画で天保八年刊〉
    『偐紫田舎源氏』 柳亭種彦作・歌川国貞画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)