☆ 文化二年(1805)
◯『街談文々集要』p(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化二年(1805)「富山捕怪魚」)
〝文化二乙丑五月、越中富山領、放条津【イニ余潟浜共あり】四形の浜ぇ渡ル海、一日に二三度ヅヽ出テ、
海ヲ荒し其浦々漁一向無之、其上此魚の出ル浜村、火災有之よし、御領主ぇ訴、依之鉄炮数多被仰付、
打留ル、ウナル声三十余町程、聞ユルト云々。
惣丈三丈五尺、顔三尺、髪一丈四尺、脇鰭六尺余、背薄赤、腹ハ火の如し。
(中略、人魚の図あり)
此図ハ、或人のもとより写したるを、爰に模写す、彩色摺にして街を売歩行しハ、此図とハ大同小異に
して、面は般若の如く、鰭ひ唐草の如き紋有、横腹左右に眼三ヅヽあり、文宝亭曰、予が向ふの家、松
屋ぇ佐渡国より折々来る僧あり、此僧の物語にハ、佐渡にては折々漁師に網にかゝり上る事なれ共、此
魚をとれバ漁なしとて、自然とれたる時は、飯をくハせ酒を呑せて放ちやるよし、尤彼国にて人魚と称
するものハ、長三尺も有て、人の面ニ似て、髪の毛もすこし有よし、人語弁(ワキマ)へて、うけ答へくらゐ
ハするよし、此僧の物語なりとて、松屋隠居円養来りてかたりたるゝ、筆にまかす、随筆に見へたり。
加州侯御屋敷にてハ、一向沙汰もなく、甚虚説なるよしト云々、此後神蛇姫ト云あり、是等の焼直しな
るべし〟
☆ 嘉永二年(1849)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p490(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)
〝閏四月中旬、越後福島潟人魚之事
越後国蒲原郡新発田城下の脇に、福島潟と云大沼有之、いつの頃よりか夜な/\女の声して人を呼ける
処、誰有て是を見届ヶ、如何成ものぞと問詰けるに、あたりへ光明を放ちて、我は此水底に住者也、当
年より五ヶ年之間、何国ともなく豊年也、但十一月頃より流行病にて、人六分通り死す、され共我形を
見る者は又は画を伝へ見るものは、其憂ひを免るべし、早々世上に告知らしむべしと言捨つゝ、又水中
に入にけり。
人魚を喰へば長寿を保つべし
見てさへ死する気遣ひはなし
右絵図を六月頃、専ら町中を売歩行也〟
〝七月盆後より、越後国福嶋潟之人魚之図、先へ三番出し処に、跡追々出て、十六番迄出候よし〟