◯『江戸名物百題狂歌集』文々舎蟹子丸撰 岳亭画(江戸後期刊)
(ARC古典籍ポータルデータベース画像)〈選者葛飾蟹子丸は天保八年(1837)没〉
〝廿六夜
七えうのほしのひかりもけおされん二十六夜の月の品川
うぐひすのすさきの二十六夜まち月にけしきをそうるさゝみよ?
品川やあそびかとしも?更る夜は二十六夜の月やまつらん
しな川や袖しのうらは名のみにて二十六夜の月にさはらず
さしのぼる二十六夜の月かげにふすまのほしもみえぬ品川〟
〈品川での二十六夜待ち〉
◯『江戸風俗総まくり』(著者未詳 弘化三年(1846)成稿)
(『江戸叢書』巻の八 江戸叢書刊行会 大正六年刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「秋の節物の移り変り」(24/306コマ)
〝廿六夜の月は御仏の顕はるゝよとて 高輪、丸段、湯島なんどに人のつどひて、月のぼる丑の時を宵よ
りまつとて 納涼とりながらの賑ひ也〟
◯『絵本風俗往来』中編 菊池貴一郎(四世広重)著 東陽堂 明治三十八年(1905)十二月刊
(国立国会図書館デジタルコレクション)(44/133コマ)
〝七月 二十六夜
此の月二十六日の夜を二十六夜(や)といひて、今夜の月の出は三尊の姿に上天すとかいひて、此の三光
を拝さばやと、人々高台の地、海の眺望を撰びて相集まり、時刻を待つ、其の地は、築地海手・深川洲
崎・湯島天満宮の境内・飯田町九段坂上、日暮諏訪神社の台、目白不動尊の境内、芝浦の海岸、別して
繁昌なるは高輪海岸より品川なり、こは年中此の地第一の賑はひなりしは、天保以前のことなりとかや、
其の以来は掛茶屋に月待ちの客来たり、茶菓酒肴のみにて、鳴り物手踊り・にわかなどの催しはなし、
品川の妓楼もまた平生(ふだん)と同じくして、客人の繁きのみにて、昔時の全盛なる賑はひは全くなし、
又芝なる愛宕山の掛茶屋は平日は日暮れ迄にて、茶汲み女も皆引き払ひしを常とす、然るに当夜に限り、
夜更くる迄、客人を待つことを許されて、軒に提灯など点じて、景気を粧ふより、此の夜客足多く、武
家僧侶の族は多くは、当山にて月の出しほを待ち、詩歌俳句を弄びて楽しむ、此の近辺なる軍談の講釈
席・落語鳴物の寄席等も月の出づる迄、演ずること年々同じ、しかるに天保以前の光景(ありさま)は、
弥々失せたりと、当時の老人の語りける〟
◯『残されたる江戸』柴田流星 洛陽堂 明治四十四年(1911)五月
(国立国会図書館デジタルコレクション)(93/130コマ)
◇二十六夜待ち
〝二十六夜の月待ちは、鬼ひしぐ弁慶も稚児姿の若ければ恋におちて、上使の席に苦しい思ひの種子を蒔
く、若木の蕾は誘ふ風さへあれば何時でも綻びるものよ、須磨寺の夜は知らずもあれ、この夜芝浦、愛
宕山、九段上、駿河台、上野は桜ヶ岡、待乳山、洲崎なんど、いづれ月見には恰好の場所に宵より待ち
あかして、更くるに遅い長夜も早や二時を過ぎ、三々伍々たる人影いよ/\群をなして、かゝる砌(み
ぎ)りにも思ふ人は出来るものぞとか、月いでゝ後ちの帰るさに、宵までは見ず知らずの男と女とが、
肩をつらねて語りつゝ行くもをかし(後略)〟
〈源頼朝より義経の正室の首を刎ねよと命じられた弁慶、主君の窮地を救うため、腰元しのぶを身替わりにたてる。と
ころが、そのしのぶは実は弁慶の実子、十八年前の月待ちの夜、稚児姿の弁慶としのぶの母との契りで出来た子であ
った。弁慶云々は『御所桜堀川夜討』「弁慶上使の段」を踏まえる。鬼をもひしぐ弁慶にも、若かりし頃の月待ちの
夜の色恋沙汰があったというのである〉