☆ 文化十一年(1814)
◯『塵塚談』〔燕石〕①304(小川顕道著・文化十一年成立)
〝当戌年十月より、浅草観音境内奥山へ、頓智なぞと云看板をかけ、盲坊主、廿一二歳と見ゆる者出たり、
見物一人に付、銭十六文づゝにて入る、見物人より謎をけるに、更にさし支る事なし、解かずと云事な
し、若解せざる時は、掛し人へ、景物に蛇の目傘などをくれる事也、故に見物の人、景物を取らんと、
なぞをかける人多し、たま/\解ざる謎出る事も有由、此者の才覚、頓智成事を感心、驚ざる者はなし、
奇なる盲者にて、奥州二本松の産なる由、検校保己一が類の奇人と云べし〟
◯『街談文々集要』p333(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化十一年(1814)「謎々大流行」)
〝文化十一戌十月頃より、浅草奥山ニおいて謎坊主トいふ者出て、見物より謎をかけさせ、如何なる難題
を申ける(ママ)を、即座に解くの妙あるよしにて、行ハる、普く江戸ニ流布せり、此ものハ奥州二本松の
産にて、名を春雪といふ盲人也、春雪とハ、はやく解るといふ意なり、松井源水【奥山にて独楽廻し枕
の曲名人】是をはかりて、葭簀をもて囲たる小芝居を設く、遠近の人群集して金銭の山をなせり、
(以下、略)〟
〈『続日本随筆大成』別巻十「近世風俗見聞集10」に所収の「豊芥子日記」p423「第十一謎々大流行」と同文〉
◯『増訂武江年表』2p49(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文化十一年・1814)
〝十月より、浅草寺奥山へ謎坊主といふ者出る(頓智なぞといふ看板を出し、十八、九歳の盲坊主高座に
ありて、見物より謎をかけさせて即座にとく。若し解得ざる時はかけたる人に品をあたえてわぶるとて、
傘、米俵、菓子、器物などを飾り置くに、取られたる事なしといへり。奥州二本松の産にして、名を春
雪と云ふ。春の雪の如く謎を早く解くよし也。是れを学びたるもの向ふ両国へも出たれど、これには及
ばざりしなり。翌年、春興「かけわたす春の霞に遠近の雪さへとけて笑ふ山々」曳尾庵元亀〟