◯『江戸男色細見』(水虎散人著・明和元年(1764)刊)(国書データベース)
〝此書は堺町 葺屋町 葭町 木挽町より所々宮地に至るまで 江戸中都合十ヶ所の舞台子 影子ども悉
(ことごとく)しるして漏すことなし 増減あるものは毎月これを正す〟
〝堺町 葺屋町 葭町より川岸の分は子供屋 茶屋 役者其外商人までも斬次に書しるす 但し裏屋の分
平はこれを略す〟〈斬次は漸次と同義〉
〝一切りといふは都て金壱歩雑用ともなり 但し雛治 国太郎が類は此例にあらず 詳に堺町の部に見え
たり〟〈雛治は嵐雛治、国太郎は沢村国太郎〉
〝堺町に昔は松梅といふ事あり 松は一切り壱歩弐朱 梅は一切壱歩なり 享保年中より松は止て 今は
梅斗なり〟
〝葺屋町川岸の分 昔は藤屋 萬屋などいへる子供屋ありしが 十年以来川岸の子供屋つぶれてより 葭
町へ属(つく)〟
◯『増訂武江年表』1p223(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(寛政年間・1789~1800)
〝此の時カゲマ屋、芳町、木挽町、湯島天神内、麹町ぬし町代地、神田花房町、芝神明前、市谷八幡宮内〟
◯『塵塚談』〔燕石〕①289(小川顕道著・文化十一年(1814)成立)
〝男色楼、芳町を第一として、木挽町、湯島天神、糀町天神、塗師町代地、神田花房町、芝神明前、此七
ヶ所、二三十年已前迄楼有けり、近年は四ヶ所絶て、芳町、湯島、神明前のみ残れり、三四十年以前は、
芳町に百人余も有けるよし、此内より、芝居へ出て歌舞するを舞台子といひ、又色子とも称して、四五
十人もあり、此色子共末には皆役者になれり、女形は多分此者共より出来て、上手といふ地位に至りし
も多有ける由也、古評判記を見て知るべし、既に当時の尾上松録は舞台子にて有し也、近年舞台子絶て
なし、然る故に、江戸に女形の種なし、江戸役者の女形は有やなしやにして、女形は皆上方役者のみに
なれり、此節、衒艶郎、芳町に十四五人、湯島にも十人計も有由を聞り、宝暦の頃と違ひ、減少せし事
にて、男色衰へたるとみへたり〟