◯『藤岡屋日記 第四巻』p142(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)
「嘉永三庚戌年 珍話 正月より七月迄」
〝六月廿四日、当年市中所々ぇ麦湯見世夥敷出し候に付、御差留一件
(中略)
此節夜中往還ぇ麦湯見世差出候者夥敷相増候、何も深更迄罷出、中には、年若成女子を雇、銭を出し湯
汲に致し、涼台にて酒喰を致し候、客と取、如何之義有之、殊に門附と唱、唄・浄瑠璃・三味線を弾候
女子共を呼寄、酒之相手に致し候趣相聞、第一火之元にも拘り、不可然義も有之間、(中略)此上右体
之風聞於有之は無用捨召捕、厳重之咎可申付候(以下略)
まつしろ白な雪の肌へのあつくなり麦湯で夏も凌がれぬしぎ〟
◯『藤岡屋日記 第五巻』p112(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)
◇麦湯見世引き払い
〝嘉永五壬子年五月廿五日、市中麦湯見世一件
(嘉永三戌年六月二十四日、居付茶見世以外の往還における麦湯見世の禁止通達)
右之通、去る戌年申渡置候処、追々暑気之時節に相成候に付、居付茶見世之外、猥成麦湯、醴見世抔差
出候者も有之哉にも相聞、此節町々夜番も申付候折柄、火之用心之為、別ての義、市中風俗に不拘様、
弥右申渡之趣無遺失可相守旨、町役人共より無油断可申聞候、尚此上右体之風聞於有之は、急度可及沙
汰候〟
〈「右体之風聞」とは、路上、年若い女を雇って深夜まで酒食を供し、また門付けの唄浄瑠璃・三味線弾く女子供を呼
び寄せて商売すること〉
◯「夏の思ひ出」今泉雄作(『江戸時代文化』第一巻第七号 昭和二年八月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(麦湯屋)
〝町の広い所や池の縁なぞには葦簾張りをかけて、少しばかりの腰掛を並べて麦湯やが出て居た。麦湯へ
砂糖を入れて四文であつた。麦湯で聞えたのは、通二丁目に夕方から出た麦湯であつた。別に支度はい
らない、葦簾張りで腰掛を出す位なものだ。その麦湯に大きな行灯が出た。絵は狂斎が画いた。狂斎は
元、駿河台に居た狩野の門人であつた。狩野家は元来将軍家の抱へで無闇なものが画けなかつた。新し
い絵はあまり画かぬ事になつて居た。狂斎は色々勝手なものをかいて遂に破門されてしまつたので「破
門されりやア何ンでも画く」といつて春画なぞまで画く様になつた。その麦湯の行灯は三間程もある横
長いもので、それに蛙の大名行列を画いた。行列の鎗やお籠は皆んな草で作られて居る様に画かれてゐ
た。それがすばらしい評判になつて遠くから見にくると云ふ工合で、只見て居るわけにも行かぬから麦
湯がうんと売れたものだ。なんでも真黒になるまで-五六年-は出て居た後どうなつたかと思つたら、
外国人が買つて行つたと云ふことだ〟