◯『宝暦現来集』〔続大成・別巻〕⑥216(山田桂翁著・天保二年(1832)自序)
〝木魚講中、文化年中より、俗人木魚の大なる事、四斗樽程の丸さにひとしき物を首に掛け、座布団いか
にも立派に仕立、金欄天鷲繊抔に金銀の縫など致し、三枚四枚づゝ重ね、念仏も六宗分らず、歌唄ふが
ごとく、何の勧化と云ふ事なく、毎夜々々市中を歩行ける、次第に増長し、町年寄より留たる事なれど
も、その講中内に死たるもの有る時は、彼木魚を首に掛て、打ながら葬送の前へ立て、念仏申ながら行
也、是はいまに折々見掛けける〟
☆ 嘉永五年(1852)
◯『藤岡屋日記 第五巻』p113(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)
◇木魚講禁止
〝五月廿五日、木魚講中御触之次第
開帳仏江戸着并出立之節、迎ひ又は送り抔と号、或は神仏縁日等ぇ木魚講と唱、大き成木魚を蒲団に乗
せ襟に懸、往来を打ならし念仏を唱、多人数押歩行候義、増長致候よし、以之外之事に候、右は神仏崇
敬之意味にたがひ、市中風俗にも拘り候義に付、早々相止候様、町役人共より可申聞候〟
〈嘉永六年(1853)五月七日「国府弥陀着に付、木魚講一件」(五巻p301)は以下のように記す〉
〝抑、木魚講之義は、寛政之頃、浅草寺観世音の御花講と唱し、木魚講を目論見、念仏にきやり同様の節
を付候故、流行出し、二三講も浅草にて出来候所、其後追々人数もふへ候(以下略)〟
☆ 嘉永六年(1853)
◯『藤岡屋日記 第五巻』p238(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)
◇役者似顔絵出回る
〝嘉永六丑年三月、当時世の有様
上の御政道も御尤至極なり、冨士講が差留られ、木魚講がはびこり、此方は浅草観音の御花講にて、東
叡山宮様の御支配にて、念仏だからいゝおかひ(ママ)といふかけ声を高らかに張上げ、大木魚の布団を天
鵞絨縮緬にて拵へ、是へ金糸にて縫を致し、二重に敷重ね、信心は脇のけにて、是見よがしと大行にた
ゝき歩行、又師匠の花見も段々と仰山に相成、娘子供は振袖の揃ひ、世話人は黒羽弐重の小袖に茶宇の
袴を着し、大拍子木をたゝき、先へ縮緬染抜の幟を押立て、祭礼年番之附祭り気取りにて、甚敷は種々
さま/\の姿にやつし、途中道々茶番狂言を致し歩行、往来を妨げ候故に、是も差留られ〟
◇木魚講処罰 p301・305
(五月七日、伊勢国津、国府阿弥陀如来到着)
〝富士講十九組迎に出候得共、鈴を不持、行衣も着せず候故、別条無之、木魚講中は残らず出候処、大木
魚に敷風団羅紗天鵞絨、呉羅服の類へ金糸にて縫模様に高金を掛、仰山に致し、勇みすゝみ、ヱヽヲヽ
イと言懸声のきやり念仏にて、喧嘩買ふと押歩行候故に、右講中之内、五組召捕に相成候〟
(出迎えした木魚講の連中に、五月廿九日、過料三貫文・手 鎖・叱りの処罰下る)
〝極楽の弥陀の迎ひの木魚が地獄の底へ落されるとは
つまらなひ目に遭たのは木魚講 かふも厳しひ弥陀の御迎ひ
木魚は大はたきなる御花講 かふもなみだの出たる三ぞん
とふ/\から弥陀の土産にあやめ草
蝶々に皆われけり御花講
縁仏をとなへ地獄へ呼出され
木魚のやふな金玉釣上り〟