◯『閑談数刻』一〔百花苑〕⑫235(著者未詳・成立年未詳)
〝●藐庵宗先(みゃくあんそうせん)【よし原江戸町貳丁目名主/西村佐兵衛。歌仙庵と号】
浅草奥山ぇ隠居して人丸堂を建。近衛三藐院流を学びて◯藐庵と名附名筆也。茶は宗偏流、八ッ窓の
園を建たり【遠州流も點る】◯乾山の名を継、上京して◯法橋と成茶器を焼。和哥は柾◯千もとを友
として詠し◯伊村(これむら)と云。琵琶は◯勝氏に習ふ。河東節は七代目◯河東 東雲 又後◯沙洲ニ
習ふ。近来墨絵を画て茶風自らあり。古筆の目利をよくす。茶器の目利もす。
(付箋)西村藐庵ハ嘉永六年十一月廿日没、年七十。法名釈藐庵宗先居士。寺ハ浅草の等覚寺なり。
●道風、佐理、行成の中宇百八字形は世に珍敷ものゆへ、石摺にして人々に贈ル。浜村蔵六の刻也。
●花街漫録 其一の画、以一書
●金光明最勝王経如意宝珠品【雷除也/藐庵書】印施。此外御持摺の類色々あり
●茶家印譜 序成嶋氏、跋川上宗寿
書画の類、茶器の類、珍器等数多ありしが、みやくあん法師身まかりて後、よし原西村氏の土蔵へ秘
め置しが、地震の為に皆々焼失して当主佐兵衛【実子也】は光一と云、画をよくす。怪我をして逃し
程なれバいさゝかのものも持たれずと也。臨命終時、不随者とは有り難き御敬也。二千金程のもの成
と云。是をもて貧き人に施さバさぞ/\天の御喜びあらん。
よし原には居ても奥山に多く住ひ、深川少しの間居し事有、所々泊りあるき少しの旅を好ミ、箱根
堂ケ嶋夢想国師の堂ぇ翌年国師の真筆を持行納めたり。
奥山自庵にて
軒近く風にみだるゝ荻の葉の音さへすめる秋の夜の月
薄衣の袖もるかげの涼しさをおもひかさねん夏の夜の月
藐庵老人身まかりて灰寄の時、西村家中残らず、【江戸町一丁目名主】竹しま家内残らず【当主は西
村光一の弟也】灰を寄たるに舎利二粒出たり。【一指も行て其節見たり】
おかしき咄はなけれど近来よし原一の好事ゆへ申上候〟
〈『花街漫録』は文政八年刊、其一は鈴木其一。『茶家印譜』天保六年跋、成嶋氏は成島司直(東岳)か。一指は下谷の
料亭、田川屋駐春亭の子息幸次郎〉
◯「金龍山景物百詩」(四)(文久仙人戯稿 『集古』所収 昭和七年九月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション『集古』壬申(4) 7-8/13コマ)より収録)
〝西村藐庵(みゃくあん) 新吉原名主 人丸堂隠居 風流遺逸話 多芸特能書〟