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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
見世物年表
☆ 見世物 天保元年~十四年(1830~1843)
浮世絵事典
※ 摺物あるいは一枚絵の見世物資料は画工名が分かる資料を中心に収録 出典『観物画譜』『武江観場画譜』『摂陽観場画譜』(朝倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収) 「見世物興行年表」(ブログ) 署名「~」とある画工名は本HPも確認したもの、単に~画とあるものは出典資料から引用したもの ◎は難読文字
☆ 天保元年(文政十三年・1830)
<この年 目玉小僧 両国>
◯『甲子夜話 続編4』巻四十七 p133(松浦静山・文政十三年三月記) 〝予〈松浦静山〉両国橋を往来するに、所謂見せ物なる者の看版(カンバン)に、唐子(カラコ)の形なる者三つ。 一は両眼左右に突出たると、一は片眼を扇を以て押出す体、一は唐子の小鼓を撾(ウ)樋つ体を画く。一 日人を遺して見せしむ。返て曰。男子年二十ぱかりと覚しく、髪を剃り唐子頭の如くし、左右に髪をの こし総角とし、筒袖ぼたんがけの服をし、下は股ひき、上は袖無(ソデナイ)羽織を着、唐子の容を為し、 一帖なる台の上に坐せり。其前に大小鼓(タイコ)二つあり。見る者凡十人にも満れぱ、其者自身大鼓を鳴 し、又自ら出眼(シユツガン)のいわれを唱へ、まづ左眼を出さん迚(トテ)、外眥(マジリ)を指にて推(オセ)ば、 眼忽ち脱(ヌケ)いづ。〔この出たる体は、大鯛の眼を抜きたるよりも大にして、白瞳(シロメ)の所に紅き筋 ひきて見ゆると〕。其形円く、瞼(マブタ)に酸醤(ハウヅキ)〔草実なり〕をつけたる如く見ゆ。夫より又出 たる眼を撫るかと見れぱ、眼入て元の如し。次に右眼を出すと云へぱ、脱出すること前に同じ。これよ り両眼一同に出さん迚、左右の指にて眥を推せば双目発露せり。是も撫入れ畢て、自ら復(マタ)小鼓(コ ダイコ)を鳴し見物の者を散ぜしむと。観者又曰。此こと術ありて欺くかと。近く寄りて目をつけて能く 視るに、実にして偽りならず。皆驚かざるは無し。又曰。彼れ眼の出ざる常頗を見れぱ、物を視る半眼 にして開目の状なし。たで日側(メノハタ)凹(クボミ)て、瞳子(クロメ)には白膜(クモリ)かゝり黒み少く、病眼と も云べき体なり。察するに物を視ては分明ならざるかと覚ゆ。又その眼を推出せしを見るに、甚醜穢に して見る者厭悪を生ず。又この出処を問へば、遠来に非ずして、言舌江戸の産ならんと云〟
〈静山はどうしても信じられず、官医・桂川甫賢や馬嶋流の眼科医に意見を求めたり、自藩の侍医を両国に遣わして見 聞報告をさせたりしている。結果はというと、蘭方医・桂川はあり得ないと断じ、馬嶋流も医学的には否定して怪術 (マホウ)かとし、侍医は判断に窮したようで「人間片羽(カタハ)の中の、最も怪むべき者乎」と綴っている〉
<この年 化け物細工(泉目吉) 大森村>
◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥128(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事) (「文政十三年(1830)」記事) 〝大森村に化物の細工を観せ物とする茶店出たり、近時両国元町回向院前に
目吉
といへる人形師有、化物 咄をなす林屋庄蔵が小道具を作れり、夫よりさまざまの細工して処々に見せ物とす、大森村なるも是が 細工と見ゆ、これより已前に宇祢次と云細工人有て、種々奇怪の物を造れり、木彫のみならず、絹或は 獣皮諸物を用ひて作る、一年葺屋町河岸に奇怪の物を数多みせ物に出せり、又其後浅草奥山に人魚の五 尺ばかりなるを出す、是等は獣皮魚皮をあはせて作れり、其頃玄冶店に丸屋九兵衛といふ道具中買する 者、彼ふき屋町にてみせ物としたる内の徳利子といへるをもて来て、余にみす、面部は薄き皮にて張り て、内に牽糸を設て面皮延び縮みをなす、生るが如し、髪は獣毛をさながら用たれば細工の跡しれず、 俳優尾上松緑なども、これが細工を用ひけると也〟 ◯『わすれのこり』〔続燕石〕②119(四壁菴茂蔦著・安政元年記?) 〝泉目吉 本所回向院前に住居して、人形師なり、此者、幽霊、生首等をつくるに妙を得たり。天保の初め、造る ところの物を両国にて見せたり、其の品には、土左衛門、首縊り、獄門、女の首を其髪にて木の枝に結 ひ付け、血のしたゝりしさま、又、亡者を桶に収めたるに、蓋の破れて半あらはれたる、また人を裸に し、木に結びつけ、数ヶ所に疵を付、咽のあたりに刀を突立てたるまゝ、惣身血に染みて眼を閉ぢず、 歯を切りたる形ちは、見る者をして、夏日も寒からしむ。婦人、小子は、半見ずして逃出るものおほし、 されども、こわいもの見たがる人情にて、却つて大あたりせし、此類ひのみせもの、外にも多く出来た り〟 ☆ 天保二年(1831)
<三月 籠細工(一田庄七郎) 大坂四天王寺>
◯『観物画譜』33 「【春のにぎわい/浪花のながめ】籠細工 天竺大人形 口上(略) 籠細工人 一代目一田庄七郎 初代門弟一田吉兵衛」摺物 署名「
歌川国丸画
」板元未詳
<子供足曲持 西両国広小路>
◯『馬琴日記』②382 七月二日記事 〝此節、両国西広小路にて見世物、大坂下り小童三人、十二才・九才・七才、右足力曲持かるわざ繁昌の よし。右ばん付、森や板一枚、宗伯、今日江崎やより持参。近日、公方様、浅草辺御成の節、上覧可有 之旨、御沙汰のよし、風聞。橋場へ小屋かけ候よし也〟
<八月 子供力持 東両国広小路>
◯『観物画譜』34(倉無声収集見世物画譜『日本庶民文化史料集成』第八巻所収) 「【大坂子供】力曲持 太夫本綾川猪平 番付(略)」摺物 署名「
歌川国丸画
」板元不明 ◯「見世物興行年表」(ブログ) 「(三童子)七歳上乗浪花亀吉・九歳曲持浪花松之助・十二歳足芸浪花馬吉」錦絵 署名「
一勇斎国芳画
」板元未詳 ☆ 天保三年(1832)
<三月 からくり細工(大森徳兵衛) 興行地未詳>
◯『観物画譜』35 「煙草刻ミ仕掛之略図(説明文略)野州高山領 大沢村細工人 大森徳兵衛」画工不明 ☆ 天保四年(1833)
<二月 からくり細工 大坂難波新地>
◯『観物画譜』37 「口上(略)太夫元 大江儀助」摺物
平信画
版元不明
<三月 からくり大道具(長谷川勘兵衛) 深川八幡社>
◯『観物画譜』19 「長谷川工夫 忠義水滸一百八人豪傑伝 口上(略)座元 大江渡リ」摺物 署名「
春徳画
」森屋治兵衛板
<四月 子供力持 深川八幡社>
◯『観物画譜』36 「大坂 子供力曲持 七才大碇梅吉 大碇喜蔵 六才大橋繁蔵」摺物 画工不明・森屋治兵衛板
<六月 子供足曲持 安芸宮島>
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「大坂子供 力曲持 太夫本綾川猪平」摺物 署名「
大澤塘長画
」板元未詳 ☆ 天保六年(1835)
<五月 人形細工(韓信股潜り) 浅草奧山>
◯『増訂武江年表』2p89(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) ◇韓信胯潜りの木偶人形 〝浅草奥山に韓信市人のまたを潜る処の木偶を見せ物とす。人形丈二丈三尺余、衣裳羅紗猩々緋等之類を 用ひ、能き細工なれども、餝りたるのみなれば、面白からず、されば見物人はなし〟
〈『藤岡屋日記 第一巻』に同じ記事あり、但し九月頃としている〉
<七月 猩々に似た童子の見世物 両国>
◯『増訂武江年表』2p91(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝七月、痲疹(ハシカ)流行(豊前国宇佐八幡宮神領小浜村産にて、赤髪の男児二人を猩々翁の形に出立(イデ タタ)せて、両国に出して見せ物とす。兄は十一歳、猩寿と号し、弟は八歳、猩美と号す)
〈『武江年表』は天保七年とするが、松浦静山『甲子夜話』三編・巻十八の記事は天保六年閏七月とする〉
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「豊前国宇佐八幡宮神領小浜村産 兄猩寿・弟猩美」署名「
香蝶楼国貞写
」
〈『甲子夜話』三編・巻十八より〉
☆ 天保七年(1836)
<三月 三つ子 ギヤマン船 浅草寺境内>
◯『藤岡屋日記 第二巻』p590(藤岡屋由蔵・天保七年記) 〝三月中より、浅草境内淡島明神、三社権現開帳。 同所念仏堂にて、会津柳沢虚空蔵開帳、同所にて出生の男の
三ッ子
、七才なるが来る也、右に付ギヤマ ン舟見世物、代三十二文、殊之外評判よろし。 忠臣蔵大仕懸見世物、代三十二文 大坂天保山の景、大仕懸の見世物、代三十二文〟 ◯『甲子夜話 三編3』巻二十九(松浦静山・天保七年五月記) (三月上旬より浅草寺奥山にてギヤマン細工「阿蘭陀誘参(ユサン)船」見世物興行。船長十二間半、巾三間余。 細工人、硝子・楠木富右衛門、人形・竹田縫殿之輔)
<六月 籠細工(長種次郎) 回向院>
◯『藤岡屋日記 第二巻』p590(藤岡屋由蔵・天保七年記) 〝六月十五日より六十日之間、嵯峨清涼寺釈迦如来、回向院にて開帳。 大当たり、いろ/\の見せ物出来る也。 (八月十六日より九月十六日まで三十日の日延べ、都合九十日の開帳) 籠細工富士の牧狩、表看板曽我五郎・朝比奈草摺引、格好よく出来候、亀井町長種次郎作、代三十二文、 笑ひ布袋見せもの廿四文也、虎狩の見せ物廿四文。 江の島宮島長崎の女郎屋の見世物、看板遊君の人形・禿人形・ギヤマン家仕立、代三十一文、東海道伊 賀越敵討大仕掛見世物看板、京都清水人形立、代三十二文、三千世界一水大仕懸看板、龍宮女人形五ッ、 代三十二文、此外数多見世物有之、参詣群集致し、朝参り夜七ッ時より出るなり〟 ◯『増訂武江年表』2p63(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝天保七年回向院に嵯峨釈迦開帳に、亀井町籠細工師みせ物を出す。看板はしころ引の朝比奈と時致なり。 其の細工もとの細工にくらべては抜群にすぐれたり〟 ☆ 天保八年(1837)
<九月 籠細工(大伴黒主と桜の精) 神田祭の曳き物>
◯『増訂武江年表』2p92(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝九月、神田明神附祭(ツケマツリ)の内、橋本町壱丁目より籠細工の曳物を出す(歌舞伎の趣向にて黒主と桜 の霊の人形也。顔より手足衣裳岩組立木にいたる迄、悉く籠にて造り絵の具にて色どりたる也〟 ☆ 天保九年(1838)
<三月 銭細工 鉄物細工 市ヶ谷茶の木稲荷>
◯『藤岡屋日記 第二巻』p46(藤岡屋由蔵・天保九年記) 〝三月朔日より、市ヶ谷茶の木稲荷、居開帳也〟 〝市ヶ谷茶の木稲荷、開帳大繁昌也、奉納物、銭細工、氏子町々より上る也、太田道灌、山吹稲荷神狐の 舞、加藤清正虎狩、伊勢物語井筒、玉藻の前、鶏、殺生石、鉄物細工、獅子の子落し、酒道具にて、鞍 馬山僧正牛若丸、其外いろ/\在り〟
<三月 化け物人形細工(泉目吉) 両国回向院>
◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥136(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事) 〝三月十七日より回向院にて井頭弁天開帳、人形師泉目吉、変死人種々作りたる見せ物出〟
<五月 銭細工(人形等) 両国回向院>
◯『藤岡屋日記 第二巻』p60(藤岡屋由蔵・天保九年(1838)記) 〝五月二十五日、紀伊国加太淡島大明神、回向院にて開帳大繁昌、奉納物数々あり、但し五月廿一日御着 之節、大群集致す也。 奉納物 瀬戸物舟、神功皇后、武内宿禰。銭細工で同断。 額巻(ママ)の額、いろ/\細工人形、角力、女子供都合五人、十組問屋中奉納 加田の浦景、子供十五人、米船に乗る 銭細工、紙ひいなの大額 五節句の餝りもの 田舎源氏須磨、男女人形弐人、其外いろ/\〟 ◯『事々録』〔未刊随筆〕⑥283(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事) 〝此春は井の頭弁才天を両国回向院にて開帳、向島白髭明神其余も二三ヶ所ありしが、市谷八幡茶の木稲 荷の開帳は世にいふ居開帳なれども、作り物多く、銭もて人物生類奇品を氏子/\より納め、殊之外群 集せり、其中に山雀に歌がるた取らせる芸を見せる茶店出て評判高し〟
<七月 アザラシの見世物 西両国>
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「海獣 俗よんで海怪(うみのおばけ)」摺物
かつしか長徳斎画
森屋治兵衛板 ☆ 天保十年(1839)
<二月 獏・河童(細工物)・叶福助の見世物 名古屋大須>
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「(獏の絵)」摺物
鳥居清安画
版元未詳
<三月 木彫り細工 亀戸天満宮>
◯『増訂武江年表』2p93(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝三月朔日より、亀戸天満宮開帳(筠庭云ふ、天満宮開帳に奉納もの種々あり。中にも木彫細工人寄合ひ、 さま/\のものをつくれる額、又
歌川国貞
「田舎源氏」を書きたる美麗なりき。当時国貞天神門前に住 す。裏家なり)〟
<六月 籠細工(宝船七福神) 両国回向院>
◯『増訂武江年表』2p94(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝六月十七日より、回向院にて、川崎平間寺弘法大師開帳(東両国に籠細工十一間の宝船七福神の見世物 出る)〟 ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥137(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事) 〝六月、回向院にて川崎平間寺弘法大師開帳、此事奉納横額の様に二間計も作りたる唐銅鋳物の如くみゆ る細工也、中の文字はいろは仮字、大師やうにて、末に大師の花押有、すべて欸紋陽識(オキアケ)なり、縁 (ヘリ)は雲竜高彫、みな張子紙細工と云、おもふに薫(クスベ)の桐油紙を用ひ、色を付たる物歟、いとよき 手際なり〟 ◯「見世物興行年表」(ブログ) 「元祖 かご細工大からくり(七福神船遊び)太夫元亀井町与平治」摺物「一◎斎 芳中画」 ☆ 天保十一年(1804)
<四月 壬生狂言 芝神明社・浅草寺境内>
◯『増訂武江年表』2p94(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝四月朔日より、芝神明宮内にて、天満宮御筆の像開帳(此の時境内へ、京より来りし壬生(ミブ)狂言を 見せ物とす。後浅草寺境内へも出る。面白き事にて有りしがさしてはやらず)〟
<六月 人形飾り 天王祭>
◯『藤岡屋日記 第二巻』p136(藤岡屋由蔵・天保十一年記) 〝(六月、天王祭飾り物)小舟丁天王錺もの、六ヶ処出来る也 丸太河岸 大坂新町吉田屋坐しきの景、夕ぎり伊左衞門、人形二ッ 薬師堂前 仙台萩御殿場、人形三ッ 諏訪新道 富士之狩場曽我兄弟の夜打之段、人形三ッ 牢屋裏門 伊賀越敵討、人形三ッ 亀井町表町 かさね与右衛門、人形三ッ 裏河岸 宮本武蔵、人形三ッ〟
<この年 眼力少年 江戸各地>
◯『増訂武江年表』2p95(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝羽州新庄郡、百姓林助が孫長次郎とて十四歳になれるもの、六、七年前より両眼自在に出這入(デハイリ) す。眼の玉大さ一寸余もあるべし。其の出たる眼へ紐を下げ銭貫文を掛くる。つひに江戸に出して宮地 広場等において見せ物とす〟
〈両眼自在の少年の記事、『藤岡屋日記』は天保十二年に記事あり〉
◯『藤岡屋日記 第二巻』p184(藤岡屋由蔵・天保十二年(1841)記) 〝羽州最上郡新庄二間村百姓林助孫長次郎とて十四才に成けるが、六七年前より両眼自在に出這入す、眼 の玉大さ一寸余も有べし、其出たる眼へ紐を下げ、銭五貫文、或は石、色々のもの右に順じ懸る故、終 に江戸に出して両国宮芝居広場に於て見せものとす。但し、絹針のめどを通し矢を射る〟 ☆ 天保十二年(1841)
<二月 驢馬 浅草寺境内>
◯『藤岡屋日記 第二巻』p163(藤岡屋由蔵・天保十二年記) 〝当二月、浅草観音開帳に付、御入国以前より相続罷在候並木町海苔御用正木庄左衞門事、金設け可致と 存付、大明国大驢馬を長崎表より金四百両に買受候由、見世物小屋掛り迄七八百両も入用懸り候との事、 近々停止沙汰にて大迷惑致し候との事、右は宗対馬守殿御館へ預ヶ置候との事 耳長く惣身鼠色、大さ馬程、鳴く声井戸釣瓶を汲音の由、時をたかへず時刻々に鳴候よし〟 ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥138(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事) 〝三月十八日より浅草寺観世音開帳、奥山に驢馬見せ物出、又国丸といへる者、曲鞠を蹴るみせ物出、見 物多かりしが蹴鞠家より障りて止む、又淀川富五郎といへる者貝細工をみす、皆同所なり〟 ◯『増訂武江年表』2p96(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝三月二十八日より、浅草寺観世音開帳(奧山にて驢馬を見せ物とす。又菊川国丸といへる者、同所にて 曲鞠を蹴る。見物日毎に山をなせり。又といへるものゝ作りし貝細工の見せ物もあり)〟 ◯『観物画譜』39 「驢馬 口上(略)」摺物 画工不明 森屋治兵衛板
<三月 曲鞠(菊川国丸) 浅草奧山>
◯『藤岡屋日記 第二巻』p179(藤岡屋由蔵・天保十二年記) 〝三月、浅草観音開帳之砌、奥山において三日(ママ)廿三日より、大坂下り風流曲手まり太夫菊川国丸 曲鞠番組 次第 大序 寿三番叟 高まり 第二 ありわらのむかし男の姿とは おこがましくも渡る八ッ橋 第三 豊年を悦ぶ翁煙草 こくうを走る仙人の術 第四 張良が沓を捧し橋ならで 是は風流木曾の桟橋 第五 膝渡し左右流しや滝落し 浪を分つゝ雲にかくるゝ 第六 小廻りしゑを拾いッヽ、遊ぶ鞠 雲井はるかに渡る中釣 第七 生花を受流しッヽ折敷て 大廻りしてむかふ乱ぐひ 第八 登り龍くだりし龍や虎こま(ママ) たすきにかけて雁の入首 第九 柴船を足で留たる平た蛛 高く蹴あげて見るも一曲 第十 八重桜額にかけて腕流し、雲井を通ふ雁金の曲〟
〈『甲子夜話』三編・巻七十七 ⑥269 松浦静山曰く〝辛丑(天保十二)初夏の頃なり、浅草寺観音開帳とて有り、 其時、彼の奥山と云に、蹴鞠する者出て、諸人見物す。予は久しき飛鳥井の門弟にして、鞠は蹴れども、身柄ゆゑ観 にも往かれず。近従の輩が視たりし話を、左に挙録す〟として、近従の者に画かせた曲鞠芸の図あり。静山の感想は 〝風流曲手鞠、大夫菊川国丸罷下云々と。されども全く蹴鞠にして手鞠に非ず〟というものであった〉
◯『観物画譜』38 「【風流】曲手まり 太夫菊川国丸 口上(略)」摺物 署名「
春艸画
」森屋治兵衛板 ◯「見世物興行年表」(ブログ) 「(菊川国丸曲毬)」錦絵 署名「
一勇斎国芳画
」川口屋宇兵衛板 「流行猫の曲手まり」錦絵 署名「
一勇斎国芳画
」川口屋宇兵衛板
<六月 瀬戸物細工(柳文三) 浅草念仏堂>
◯『増訂武江年表』2p96(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝六月より、浅草念仏堂にて、箱根荒人神開帳(境内に大坂細工人柳文三の作瀬戸物細工の見せもの出る)〟 ◯『観物画譜』41 「大機棙(おほしかけ)陶器細工 大坂細工人 柳文三」摺物 画工不明 森屋治兵衛板 (源氏胡蝶舞・大津絵/鬼念仏/藤娘・涙の樊噲門破りノ働・笑大黒かくれ里の機関・茶の湯座敷・牛若 丸/弁慶/五条橋)
<七月 瀬戸物細工・貝細工(淀川富五郎) 浅草奧山>
◯『藤岡屋日記 第二巻』p181(藤岡屋由蔵・天保十二年記) 〝【浅草念仏堂】曽我両社開帳 七月朔日より 瀬戸物細工 牛若弁慶五条橋 樊噲門破り 鬼の念仏藤娘 笑ひ大黒 茶の湯座敷 貝細工 貝細工人 淀川富五郎 人形師和泉屋五郎兵衛 【俵藤太遊女】大蛇に百足【凡十間余前手すり 五条橋】 大原女草苅 雀竹 色遊 其外鉢植二十品 見世もの大評判、其外に 太刀持 子供刀持 神事さゝら獅子 糸細工 空乗大曲馬 小人島足長島 目出太郎 狐娘 角乗 人形 刀持〟 ◯『観物画譜』40 「かゐさいく 口上(略)古来元祖貝細工人浪花亭淀川富五郎 貝細工人清助 政治郎 人形師和泉五郎兵衛」摺物 署名「応需
貞幸画
」森屋治兵衛板
<九月 歯力鬼右衛門 両国西広小路>
◯『藤岡屋日記 第二巻』p217(藤岡屋由蔵・天保十二年記) 〝九月、両国橋西広小路ぇ、紀州和歌山の生れにて、歯力鬼右衛門といふもの見世物に出るなり。磁器の 茶碗をかみ割、或は大だらい差渡し六尺子供二人入れ、是をくわへ踊り、鐘の龍頭を口にくわへ、右臼、 右と左りへ四斗俵のせ、口にくわへ矢をいる、誠に奇妙也、重きもの四五十貫のものをくわへ自在に扱 ふ也〟 ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥138(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事) ◇歯力鬼右衛門 〝九月、両国広小路に、紀州若山の産、歯力鬼右衛門と名付て、茶碗を囓わり、つり鐘を歯にかけて揚る 見せ物出〟 ◯『増訂武江年表』2p96(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝九月、両国橋西広小路へ、紀州和歌山の生まれにて歯力鬼右衛門といふもの見せ物に出る。磁器の茶碗 を噛み割り、或ひは鐘の竜頭を口にくわへ、其の余重き物をくはへて自在に扱ふ。又浅草の奧山へ、釣 馬となづけて曲馬を乗り、後に馬人ともに宙に釣り上る見せ物出たり〟 ◯「見世物興行年表」(ブログ) 「紀州若山 歯力鬼右衛門」摺物 署名「
勝川春徳画
」森屋治兵衛板 ☆ 天保十三年(1842)
<三月 乱杭渡り(浪花亀吉) 深川八幡~回向院>
◯『藤岡屋日記 第二巻』p264(藤岡屋由蔵・天保十三年記) 〝四月廿九日 此節、深川八幡・成田山開帳にて浪花亀吉乱杭渡り大評判なり〟 ◯『増訂武江年表』2p97(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊) 〝六月より、回向院にて、南都法隆寺聖徳太子開帳(霊宝数多拝せしむ。何れも古物なり。当春深川の開 帳よりして、乱杭渡(ラングイワタ)りといふ物行はれ、此の度も境内へ出る難波亀吉、菊川伝吉などいふも の也)〟
<三月 軽業(浪花亀吉 菊川伝吉・蘭杭渡り) 深川八幡>
◯「見世物興行年表」(ブログ) 「蘭杭わたり 浪花亀佶」錦絵 署名「
一勇斎国芳画
」上州屋重蔵板 「蘭杭の上はしごの曲持 浪花亀吉」錦絵 署名「
一勇斎国芳画
」上州屋重蔵板 「青竹切先幷らん杭渡り 菊川伝佶」錦絵 署名「
橘蝶楼貞房画
」山口屋藤兵衛板 「蘭杭足曲持」団扇錦絵 署名「
五雲亭(?)貞秀
」伊勢屋惣右衛門板 ☆ 天保十四年(1843) ◯『浪華百事談』〔新燕石〕②228(著者未詳・明治二十五~八年頃記) (天保十四年頃の記事) 〝◯江戸
竹沢藤次、曲ごま
、是は天保十年の頃より、大坂にて難波新地に於て興行、其度ごとに大入せり、 此処にては、忰万治と共に興行して、大に流行、 ◯江戸
菊川伝吉、きつさき登り
、是は江戸火消なりしものゝ、かるわざと成りし者にて、種々の芸をな し、切先のぼりとて、数丈の丸太の立たる其端まで登りて、種々芸をなす、此頃珍らしとて大に流行れ り、 ◯江戸両国泉目吉のおばけ、是は
泉目吉
といふ人形師の細工の
怪談人形
にて、種々幽霊、或は変死人、 はりつけ等あり、其人形頗る妙作にて見物驚きたり、而して大入せり ◯
大江のからくり
、大江と云は、昔よりある
からくり人形
細工、又、あやつり人形の、頭、手足等をも 造るものにて、大江和助、
大江忠兵衛
、大江卯兵衛、大江貞橘抔いふもの数軒有、其内、観物場の大か らくりに妙を得しは忠兵衛にて、難波新地に年々興行し、又此所にても興行せしなり ◯江之島
貝細工
、貝細工は、種々の美麗なる貝にて、花鳥、獣類、虫蛇などを造りし物にて大入せり ◯婦女三十六歌仙
生人形
、是は尾州名古屋の木偶師が作にて、種々の女の姿を人形にせしものにて、頗 妙作なり、 ◯
松の盆栽
、是は松の木の種々珍敷造りし盆栽を、数拾陳列せしものにて、其大なるは、幹三四尺の物 有り、 ◯
首ふり芝居
、浄瑠りの文句に合せ、小供役者が詞を発せず、身ぶりして狂言をする物の名にて、今も 時々興行せること有れ共、此所の鰻谷の浜の小家にて興行せしものは又異にして、役者皆面をかむりて 芸をなし、始て興行せしは、猿ヶ島の敵討にて、其次の興行は浦島一代記なり、尤も、是は浄るり芝居 も人形入にて、興行を従前の如くせし時なり、 ◯
子供しばゐ、首ふり芝居
、凡六十日余興行せし後ち、十二三歳位の子供役者のみにて、尋常の歌舞伎 芝居を、うなぎ谷の浜の小家にて始る、されど、舞台引まくは、道頓堀芝居より差ゆるさず、依て、上 へ引上る幕なり、此芝居続々大入せり、其価、一日割込壱人前八拾八文なり、後には此処のみならず、 御池橋の詰木綿橋の辺にも興行せり、されど、鰻谷の小家特別にいつも大入せしなり、而して、此築地 がため年限おえ、又社寺内芝居免許となるにより、旧の如く、社寺内にて興行する事となれり、 ◯
かげ芝居、役者声いろ
はやし入、 ◯
錦かげ絵
、今の幻燈なり〟
〈これらの見世物は天保十四年頃の大坂西横堀下流新築地で興行されたもの。この泉目吉は人形師、文化十二年に死亡 した絵師・泉目吉とは別人〉