◯『葛飾北斎伝』(飯島虚心著 蓬枢閣 明治二十六年(1893)刊)
(出典:岩波文庫本 下p222 鈴木重蔵校注)
〝露木氏曰く、国芳嘗て独楽廻はし竹沢藤氏が、画看板を画きし時、北斎の門人医生大塚道庵をいふ人、
国芳の為めに、此の看板の画を助けたり。国芳この道庵によりて、北斎に面せんことを請ふ。(北斎は
承諾して面会したが、今後頻繁に往来すれば、歌川派の名手国芳も葛飾風に画風をかえたかと疑われる、
として面接はそれきりになったという挿話あり、省略)
露木氏曰く、見世物の画看板は、昔は、両国平といへる者ありて、専画きたり。しかして浮世絵師は、
此の看板を画くことを恥とせり。されば当時国芳が、この竹沢の画看板を画きたりとて、そしるもの多
かりし。又曰く、此の頃書画会の席に、両国平も招かりしことあれど、浮世絵師と席を列することを得
ず、別席にて酒汲みて、浮世絵師を尊び、旦那/\といへり〟
〈露木氏とは北斎門人・三代目為一。飯島虚心著『葛飾北斎伝』の取材源のひとり。国芳が絵看板を画いたという曲独
楽・竹沢藤治の両国興行は、露木の口ぶりでは北斎存命中(嘉永2年4月没)のことであるから、弘化元年(1844)か嘉永
二年(1849)のいずれかと思われるが、嘉永二年の興行は北斎の亡くなる一ヶ月前の三月からのもの。したがって、国
芳の絵看板は弘化元年のものと考えられる。このとき国芳は錦絵の方も沢山画いていた。本HP「浮世絵事典」【み】見
世物、弘化元年の項参照。流派の違う北斎との往来を望むといい、浮世絵師が忌避してきた見世物の絵看板を画くと
いい、従来の仕来りにとらわれない国芳の性情をよく伝えるエピソードである〉