Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ めかづら 目鬘(百まなこ)浮世絵事典
 ◯「七変化女眼かづら」初編 文政五年(1822)刊    柳亭種彦作 歌川国貞画 文政壬午春興 鶴屋金助版    〈種彦の戯文と国貞の画で、ほろ酔いの眼・悋気の眼・さげすむ眼など七種の「眼かつら」を画いたもの〉    七変化女眼かづら 歌川国貞画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」「芸海余波 附巻」所収)  ◯「百眼の歯磨」朝倉無声著(『此花』第十四号「江戸名物志(四)」大正二年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝弘化嘉永の頃、浅草大恩寺前に住せる米吉といへる者、身には荒き格子縞のドテラを着し緩く〆たる三    尺帯には、巨大なる煙草入を提げ、豆絞の手拭を肩にかけて、手には真鍮の金具を打たる歯磨入の箱を    持ち「江戸の花梅勢散薬歯磨、本元大恩寺前百眼(ひやくまなこ)」と呼びながら、江戸市中を徘徊す、    若し歯磨を購ふ人あれば、御愛嬌にもと目鬘(めかづら)をかけ、顔面をさま/\に変化させて、観者の    笑をとりしなり、『狂歌倭人物』【安政年間版本】百眼の條に     笑はする百眼には米吉も 白き歯を見せ鬻ぐ歯磨    又『近世商売尽狂歌合』【写本】にも     爰に出だせしは、大恩寺前より出る、歯磨売米吉といふもの、歯磨を売りて、其愛敬に目鬘をかけ、     をかしげなる身振せしに大にはやりて、後には百眼歯みがきとて、処処へ取次商ふ店を多く、此外飴     売にもありし云々    と記して、油揚を鳶に攫はれし姿を、眼鬘かけてなす図を載せ、其の詞書に     ホイ、あぶらげを取られた、イメエマシイ、アレ/\/\、屋根でくらてッいらァ 屎とんびめが    とあり、この滑稽にして愛敬ある身振いたく時好に投じ、商家店頭のひま/\、或は裏店に留守する山    の神等が買求めては、日永の睡気さましに笑ひ興ぜしかば、市中到る処彼の得意先ならざるはなく、百    眼歯磨と称せられて大に流行し、終には取次販売店さへ設けらるゝに至れり、されば当時百眼の米吉と    いへば、三尺の童子も知らざるはなき程、其の名高かりしかば、嘉永六年二月七日、河原崎座切狂言    『霞色連一群』の景事に、大阪新下り嵐璃玨、百眼米吉に扮ち、其の身振を真似て演せしに、大喝采を    博せしより以来、米吉の名は益々高く、随つて家業も亦一倍繁昌して家富み栄ゆるに至りしかば、後に    は店を番頭に委ね、向島に楽隠居の身となりしといふ かくの如く米吉の成功するに至りしは、梅勢散    の売弘めに百眼を応用せしに在り、    この百眼は彼の創意なるやと言ふに然らず、実は落語家三笑亭可上(かじやう)が、寄席に演ぜし技を模    倣せしなり、当時可上の百眼は、其の技神に通じ、満都の子女をして笑倒せしめ、世評頗る高かりしを    観て、自家の歯磨売弘めに利用せしものなり、されば百眼の元祖は可上なる事、既に『落語家奇奴部類    (きぬぶるゐ)』【写本】に     麹町住三笑亭可上、怪談物語の元祖也、百目玉の元祖也、元祖可楽門人、麹町住三笑亭可上、百眼の     元祖也、後に可上斎美道雄と成り、又可上となる    『東都噺者師弟系図』【一枚物摺】に、      故可楽門人、百まなこ元祖可上    『近世商売尽狂歌合』【写本】五番百眼の條に、      よし悪しの早替りする人心 見する可上の工夫こそよき     (中略)    『近世商売尽狂歌合』【写本】百眼注解には     この眼鬘と云ふもの、寛政の頃にも流行せしにや、山東京伝作『景清百人目鬘』と云ふ草双紙にも出     版せし程なり、其後廃れたりしを噺家元祖可楽門人、三笑亭可上と云ふもの再興し、百眼の妙を得た     り、夫より錦絵に出し張抜に作り、都下は勿論在々の至る迄是を翫ぶことゝはなりぬ云々    とありて、眼鬘は既に寛政の頃より流行せしものとせり、されど寛政年代に、山東京伝作として『景清    百人眼鬘』と題せる草紙出版されし事なし、これ恐らくは天明六年版本の『悪七変目景清』【山東京伝    作】の誤記なるべし、同書の巻末に、前葉に模刻掲載せし挿画ありて、其の図上には、     重忠目かづらといふものを工夫し、これを吉原のたいこ持目吉につたへける、今座敷芸にする七へん     目といふはこれなり、此次はいろ目と蚤取りまなこでござります    と記せるによりて考ふるに、天明の初年重忠と替名されたる通人、この眼鬘を工夫して、吉原の幇間目    吉に伝授したりしより、其の身振の可笑しきを賞でゝ諸家の招く所となり、座敷芸として演ぜしものに    して、当時七遍眼と称せしは、鬘によりて顔面の七通り変化すとの意なるべし、かゝれば名称の相違こ    そあれ 後の百眼とは何等の差異あらざれば、可上はこの七遍眼鬘に因つて、更に工夫を凝せしものに    して、百眼とは彼の師可楽の命名せしものなる事前に記せり、されば可上は創造者とは云ふばからざる    も、斯道中興の祖と称する事を得べきなり    可上の百眼 世に行はれて、其の伝授を受けし門人或はこれを模倣せし者頗る多かりし事は『落語奇奴    部類』【写本】に     麹町住 春風亭千枝(せんし)、百眼を元祖可上より請る 手品うつし絵をよくす     林屋正蔵の弟子正蝶、百眼をよくす     浅草住 浅草亭東橋 初め鯉かん門人鯉蝶といふ、後に東屋橋五郎と改名、百眼咄をなす     二代目狂言亭円生の門人 花林郷次郎、田町にて歯磨売をして業とす、百眼をよくす    とあるにて知るべく、『狂歌倭人物』【安政年間版本】に     大入を取りし可上が芸づくし 下足の番も猿まなこしつ     数多く仕込む可上が百眼 傘の蛇の目も出す景物     百眼可上がびらを目の多い 町にぞはれる本所の木戸    とあるが如く、彼がかゝりし寄席には、何時も大入大当を取り、世評高きを観たる米吉はこの技を自家    の広告に利用せしも、亦機智に富みたる者といふべきなり〟   ◯『わすれのこり』〔続燕石〕②144(四壁菴茂蔦著・安政元年(1854)?)   〝百眼可上    今いふ目かつらと云ふ物の元祖なり、わらふ目、泣く目、はらたつ目、其外数々の目を替へて、その身    振をしてはなす、忽ち人の臍を宿替へせしむ、いか成大屋のかゝの渋面も、吹出さしむ〟  ◯『百戯述略』〔新燕石〕④223(斎藤月岑著・明治十一年(1878)以降成書)   〝百眼(まなこ)と唱へ、目かつらとも称へ候物をかけ、笑話相催し候は、文政の頃、可上と申すものよ    り相始め申し候〟  ◯『読売新聞』(明治32年(1899)1月23日記事)   ◇浮世絵師の遺物(歌川国利の談)   〝国郷は百眼(まなこ)より思付きて目鬘(めかつら)を拵へ よし藤之を完成して今日に至る〟    〈よし藤は芳藤〉