◯『街談文々集要』p53(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
(文化二年(1805)「松本米三死絵」)
〝文化二乙丑年六月十一日、松本よね三死去〔添え書き「実子松本八十八」〕【俳名文車、家名松鶴屋、
松本小次郎養子、実ハ四代目吉沢あや子】
法号 浄誉取妙文車居士【行年廿八才、深川本誓寺乗性院】
一陽主人の画庵を訪ふに、文車の追善の為にとて、この肖像を写す、予そのかたハらにありて、そが辞
世の発句をかいつくる事になん。
まハりあいがけふは無常の風車 文車
或人の需に応じて 曲亭馬琴〟
〈「一陽主人」とは歌川豊国初代か。その豊国画く初代松本米三の肖像を見ながら、曲亭馬琴が文車に替わって辞世を
詠じ「死絵」を制作したのであろう〉