☆ 文政八年(1825)
◯『仮名世説』〔南畝〕⑩529(文政八(1825)年一月刊)
“英一蝶、晩年に及び手ふるへて、月などを画くにはぶんまはしを用ひたるが、それしもこゝろのままに
あらざりければ、
おのづからいざよふ月のぶんまはし
これは高嵩谷の話なり。嵩谷は町絵師にて近来の上手なり。誹諧を好み発句をよくせり。海鼠の自画賛
は、望む人あればたれにてもすみやかにかきて与へし也。その発句、
天地いまだひらき尽さでなまこかな〟
〈大田南畝は嵩谷を町絵師としている。〉
◯『続諸家人物志』「画家部」〔人名録〕③183(青柳文蔵編・天保三年(1832)一月刊)
〝高嵩谷
名ハ一雄、一ニ屠龍翁ト号シ、嵩谷ト称ス。江戸ノ人。嵩之ノ門人ナリ。當時青藍ノ称アリ。尤山水ニ
長ジ、濃淡墨自ラ五色ヲ具フルガ如ク、甚ダ逸致アリ。中年ノ後、我邦ノ武者ノ図ニ刻意シテ、其画ヲ
求ル人至テ多シ。故ニ神社仏閣額匾ノ類極テ多シ。文化元年歳六十余ニシテ歿ス。楽只斎画譜、屠龍百
富士図ナドアラワス〟
〈寺社の扁額には嵩谷の武者絵が好まれたようだ。とりわけ天明七年(1787)、浅草観音堂に奉納された「頼政猪早太鵺
退治の図(源三位頼政鵺退治)」が有名〉
◯『無名翁随筆』〔燕石〕(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立)
◇「堤等琳」の項 ③319
〝堤等琳
号深川斎、江戸ノ産也、叙法橋
二代目等琳の門人なり、雪舟十三世の画裔と称す、一家の画風、骨法を自立して、雪舟流の町画工を興
せしは、元祖等琳を以て祖とす、安永、天明の比より、此画風市中に行れて、幟画、祭礼の絵灯籠は、
此画風をよしとす、当時の等琳は、画風、筆力勝れて、妙手なり、摺物、団扇交張の板刻あり、仍て此
に列す、筆の達者、尋常の板刻画師と時を同して論じがたし、浅草寺に韓信の額あり秋月と云し比、三
代目等琳に改名せし時の筆なり、今猶存す、雪舟の画法には不似(にず)異(ことなれ)りといへども、彩
色、骨法、一派の筆力を以て、三代ともに名高し、画く所の筆意、墨色の濃淡、絶妙比類なき画法なり、
末(だ)、京、大坂に此画風を学ぶものなし、門人あまたあり、絵馬屋職人、幟画職人、提灯屋職人、総
て画を用る職分の者、皆此門人となりて画法を学ぶ者多し、門人深遠幽微の画法を得てせず、筆の達者
を見せんとして、師の筆意の妙処を失ふ者多く、其流儀を乱せり、世に此画法をのみ、町絵と賤めて、
職画と云は嘆かはしき事なり、雪山は貝細工等種々の奇巧を造りて見物させし事有、【大坂下り中川五
兵衛、籠細工ノ後ナリ】諸堂社の彩色も、多く此人の請負にて出来せし所有、【堀ノ内妙法寺、ドブ店
祖師堂、玉姫稲荷、其他多ク見ユ】近世の一豪傑なり〟
〈英泉によれば、江戸における町絵職の元祖は初代の堤等琳で、その職域は寺社祭礼の幟画・灯籠絵・提灯絵、そして
絵馬制作・堂宇の彩色にまで及んでいるという。この流派の頂点を極めたのが三代目等琳で、絵馬屋・幟画職人、提
灯屋の職人の中で、この画法に拠らぬものはなかったほど、影響力は絶大だったようである〉
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③319(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立)
〝泉守一【寛政、享和、文化中歿、五十余歳】
俗称吉兵衛、泉氏、居本郷一丁目、号寿香亭、江戸ノ産也、目吉ト称ス、俗中ノ渾名也、
始めは古等琳の門人也、後狩野探信門人となり、守の字をゆるさる、町画には可惜の名筆なり、武者画
をよくかけり、父は泉義信と云し狩野流の門人にて画工なりし、俗称の目吉を以て画名とす、本郷の一
侠客たり、能狩野流の画法を学び、墨絵の雲竜、鍾馗の絵に妙を得たり、戯れに、摺物画、花鳥の団扇
絵等を出せり、泉吉兵衛は諸社御普請の修覆、彩色御用を勤む、【日光久能山、江戸両山ノ類】町絵職
人の頭なり、【斎藤源左衛門請負ナリ】親吉兵衛より二代勤む、【三代目吉兵衛ハ門人林之助ト云シ者
也、実子聟女ニテ相続キ業ヲ勤ム】生涯名を不好、画(えがき)し額、王子権現為朝の図あり、本郷弓町
天神の社頭に、五郎時宗の額あり、湯島天神には童子遊びの図ありし、是も額なり、其他多し、門弟に
泉鉄あり、号寿川斎と云、能師の画風を学びたり〟
〈町絵職とは、久能山東照宮・東叡山(上野)寛永寺・三縁山(芝)増上寺など、諸寺社の造営・修復にともなう彩色御用
を専らとしていたようだが、そればかりでなく社頭に掲げる扁額の制作なども請け負っていたようである。また市中
の需めに応じて摺物絵や団扇絵も余技として手がけていたらしい〉