☆ 文化七年(1810)
◯『街談文々集要』p210(石塚豊芥子編・文化年間記事・万延元年(1860)序)
「鮪大漁為山」
〝文化七年庚午十二月初メより、鮪夥しくとれ、往古より覚ぇざる大漁なり、日々千弐千本と入船す、大
きなるニて壱貫五百匁位、夫より壱貫弐三百文、小なるハ八九百文位にうりし故に、上州・信州の方ぇ
多く送る、或人云、伊豆浦より銚子浦まで、海上まぐろにて埋たるが如し、当暮都下まぐろを求め、塩
に漬、春遣とす、故に鮭塩引・鱈・塩松魚抔、甚売あしく、是も何もより下価なり、筆まかせに云、
師走の初よりまぐろ多くとれて、本船町新場へ、日々何千本トいふ数しれず、一本代八百文、一貫文
位ニて、甚下直なり、常にハ四貫文位の魚なり、本船町ぇ一日四万本来りし事あり、所々辻に立売夥
敷、近頃はやりのなんでも三十八文に准へて、いく切もならべ置、よりどり三十八文といふ札を出し
て売たり、居酒屋にても四文の豆腐より下直にあたれバ、此頃とうふをくふものなし、世の中一めん
まぐろにて、いかなる家にても正月遣ひニせんとて、塩ニつけ置てかこわぬ所ハなし、かゝる事、是
迄おぼへざるト、八十の翁もかたりき。
蜀山人
一日に何万本の大鮪年の尾ひれやふるまハすらん〟
☆ 天保十二年(1841)
◯『江戸見草』〔鼠璞〕下57(小寺玉晁・天保十二年(1841)記)
〝(八月)廿二日、此頃又々真黒至て多く、甚安直也【川崎氏に聞しに、此頃小田原辺にて、一日に真黒
一億(ママ)位づゝ毎日とれ候間、其丈五尺位も有之真黒壱本が、七八百文ぐらいのよしにて有しと聞し】〟