◯『御産池龍女利益』合巻(関亭伝笑作 北尾重政画 文政十一年(1828)刊)
(関亭伝笑の自序)
〝草双紙大意
(前略)京伝作のお六櫛より口絵を初めに出せしより 自づから行はる(以下省略)〟
〈『於六櫛木曾仇討』(山東京伝作 歌川豊国画 文化四年(1807)刊)〉
◯ 合巻口絵(『浮世絵』第九号 酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)二月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(22/26コマ)
〝合巻口絵の始
草双紙に口絵を附け始めたのは 文化四年蔦屋重三郎から出版した 山東京伝作、北尾重政画の『敵討鵆玉川』で、
序文の替りに振袖姿の娘を描いた これが合巻口絵の始まりであつた〟
参考〔国文研 国書DB〕画像〈文化四年刊の合巻で口絵のある作品〉
『於六櫛木曾仇討』歌川豊国画 山東京伝作 西村屋与八板 文化四年刊
口絵 巻頭見開きに二人の登場人物
『天報正宗熊腹帯』歌川豊広画 山東京山作 蔦屋重三郎板 文化四年刊
口絵 巻頭見開き二丁に四人の登場人物
『二見之仇討』歌川豊国画 山東京伝作 鶴屋喜右衛門板 文化四年刊
口絵 巻頭一丁半 二人の登場人物
〈作者は山東京伝・京山兄弟、口絵を入れようというアイディアは彼等から出てきたのかもしれない〉
◯ 読本口絵(『国字小説通』〔続燕石〕①303 木村黙老著・嘉永二年序)
「読本繍像之精粗」
〝文化の初に至つて京伝が忠義水滸伝の口絵、唐山の水滸繍像に傚ひて、北尾重政が筆を奮ひて画きしよ
り、殊外に評判よかりし故、馬琴作の翻釈水滸画伝のゑを葛飾北斎画がき、京伝作の善知鳥全伝をば歌
川豊国絵がきて、皆々巧妙の手を尽せしより、諸作みなみな新奇を争ひて絵がくことゝは成たり(中略)
京摂にて、読本に、口絵、さしゑの細密になりたるは、玉山の絵本太閤記より巧になりし、其頃は寛政
の末なり〟
〈読本口絵・挿絵の洗練化は、『忠臣水滸伝』(寛政十一年(1799)・享和二年(1802)刊)における山東京伝・北尾重政、
『新編水滸画伝』(文化二年(1805)・四年刊)の曲亭馬琴・葛飾北斎、『善知安方忠義伝』(文化三年刊)の山東京伝・
歌川豊国、これらの人々の工夫に拠るところが大であるという。京阪では岡田玉山の『絵本太閤記』(初編は寛政九年
(1797)刊)を細密化の発端と見る〉
◯ 口絵の起原(『こしかたの記』鏑木清方著・中公文庫 原本は昭和三十六年(1961)刊)
「口絵華やかなりし頃(一)」〈( )は本文のルビ。西暦は本HPが施した〉
〝友人木村荘八は、桂舟、年方、永洗在世の時代から、私の盛りにかいたころまでを含めて、口絵華やか
に、挿絵侘びしかりし頃、と云っている。たしかに明治の一と時代に、口絵の立派なのが出さかって、
たいそう世間に持てはやされたことがあったが、私のそれに携わるようになったのは、むしろ闌(たけ
なわ)なりしころと見るのが至当であろう。この三大家の他に、省亭(せいてい)と華邨を加えたとこ
ろが、口絵でも挿絵でも、共に華やかな時代だったので、優れた仕事を示した半古はこれより少し次代
に移る。五人の作家の出生を見ると、省亭は嘉永四年(1851)。華邨が万延元年(1860)。桂舟が文久元
(1861)年。永洗、元治元年(1864)。年方、慶応二年(1866)の順で、半古になると明治三年(1870)と
年代が変わってくる。
口絵の起原についてまだ考えたことはないが、江戸末期の読本、草双紙の類にも、既に口絵はあったの
で、その主眼とするところは、多少の例外はあろうが、これから篇中に出てくる人物を、あらかじめ読
者に解っていてもらうことにあった。今日の例で云えば、映画のはじめに出演人物の予告をする手法と
よく似ているのである。文化、文政ごろのは本文と同じような墨一色刷で、ただ図様に装飾を施すぐら
いにとどまっていたが、読本にはそれに淡墨(うすずみ)を加えたのが尠くない。草双紙はすべて上下
二冊が一編になる仕組で、これを一緒に出版する。それで合巻に異名もある。二冊とも、表紙に木版極
彩色のものが附いていて、並べれば画面は続く。この形は明治の初年まで見られるが、これがここ云う
口絵に転化して行ったものではないのかと思うのである。
明治も二十年代になって、今の言葉で言えば、文化の進行にハッキリ段階を示して来た。二十二年に憲
法が布(し)かれ、国立博物館もこの時に出来た。今でも続いている美術雑誌「國華」が創刊し、劇場
では「歌舞伎座」が新築開場した。「新小説」「新著百種」などの文芸出版もあった。二十三年には国
会が開かれ、始めてわが国に代議政治が行われる。美術関係では帝室伎芸院の制度が生じた。そういう
時世に、春陽堂からは「新作十二番」と云う全部が和紙手摺木版の、表紙、口絵に丹精を凝らした美本
が発行された。この前にも既に色摺の口絵があったかも知れぬが、私のもっとも古い記憶に泛んでくる
のはこのへんである。
木版口絵の盛んになったのは、二十七、八年の戦時以後になるが、春陽堂のみでなく、博文堂でも「文
芸倶楽部」に毎号菊判二ページ大のものを巻頭に載せて呼物にした。その他の書店での出版にも、小説
に口絵が有るのが当然のように思われたけれど、その中にあって、春陽堂版は精巧なことでは一頭地を
抽いて見えた。これは堂主の和田篤太郎が、出版物に特殊な信念を懐いて、それに徹することが出来た
からである。(中略)その理想の一つに、出版の芸術性を並々ならず尊重して、そのためには犠牲を厭
わなかったのが、そうした結果を得たのであった。
画の摺はほとんど木版に限られいたのが、少数でも、石版印刷の技術が用いはじめられた時日は審(つ
まびら)かでない。砂目の製版で単色刷の美人画、肖像画などが、絵草紙屋の店頭に、錦絵に交じって
吊るされたり、浅草公園花屋敷の前あたりに、応挙の虎や、貴紳の肖像などを列べたのはかなり後まで
見られた。美人画にはインキのようなあくどい赤色を施したものも見かけたのである。二十二年、春陽
堂の「新小説」、東陽堂の「風俗画報」のどちらも表紙には石版の淡い色摺を用い、書物への利用も追
々目について来た。
石版が口絵に使われた初期に「金色夜叉」前編の、桂舟筆、熱海の海岸の画があるが、三十一年のこの
本の口絵は、よほど出版を急いだと見えて、凝り性の著者の本には珍しい粗雑さが気になった〟
〈鏑木清方に拠れば、明治二十年代後半から始まる口絵華やかなりし頃の大家を三人挙げるとすると、武内桂舟、水野年
方、富岡永洗になるらしい。またこの三人に渡辺省亭と鈴木華邨を加えたこの五人が、明治の口絵挿絵界に華やかな彩
りを添えたとのこと。自らも口絵挿絵の大家であった清方の言であるから、衆目一致の信の置ける評価であったに違い
ない。さて、この中で明確に浮世絵の画系をひく画家は水野年方のみ。省亭、菊池容斎門。華邨も菊池容斎の高弟の門
人。桂舟はちょっと変わった経歴で、狩野派に学びつつ一時は芳年にも学んで年甫の画号をも許されたが、結局はどち
らにも拠らず独学で大家に登りつめたとされる。したがって浮世絵師の画系とは言えない。永洗は小林永濯門であるか
ら狩野派の画系である。そうすると、明治十年代まで、合巻等で盛んに挿絵を画いていた絵師たち、とりわけ梅堂国政
や周延といった歌川系統の浮世絵師は全く姿を消してしまったことになる。芳年は別格として、浮世絵師たちの多くは
江戸から続くその画風に頼り切ったために、明治の新風俗を写しだす画法を新たに生み出すこともなく忘却されていっ
た。また自らの読みを入れて作画しなければならない時代に、作者の指示や版元の求めがないと画くことができなかっ
旧来の作画姿勢も時代遅れになってしまったのであろう。なお、「丹精の美を凝らした」とされる『新作十二番』は作
者と画家は以下の通り〉
『新作十二番』全八冊 春陽堂(1890-91)
明治23年 4月『勝鬨』 饗庭篁村 口絵 芳年
9月『此ぬし』尾崎紅葉 口絵 芳年・省亭
10月『嫁入り支度に教師三昧』山田美妙 口絵 省亭
11月『かつら姫』宮嵜三昧 口絵 永興(挿画 楓湖・永柳)
12月『鎌倉武士』南新二 口絵 蕉雪〔年方〕印(挿絵 年方)
同 24年 3月『十津川』 依田百川 口絵 藻斎永洗
9月『うめその』前田香雪 口絵 御楯 〈河辺御楯〉
12月『浦島次郎蓬萊噺』幸堂得知 口絵 芳年(挿絵 芳幾)
明治の口絵(雑誌編)