◯『江戸真砂六十帖』〔燕石〕①151(和泉屋某著・宝暦初年序)
〝役者こわ色の元祖の事【〔頭書〕芝居木戸芸者】
あやめ屋平治とて大坂者のよし、始は両国橋木戸伝四郎所へ馬下りして、伝四郎が歯みがきの口上にて
売る、江島どの一件より、芝居一番切りに追出しといふに成りて、木戸にて人よせに色々の咄しをして、
人足を留る、平治口上言ひに雇ひしに、上方の役者、殊に吉沢あやめのこわ色をよく遣ひ、又其頃江戸
の役者の真似をよしくける紺屋町山城屋といふ酒屋の御用、藤村半太夫のまねの上手にて、平治勧めて、
山城屋より暇を取て、勘三郎が木戸へ出、平治が相手にして藤むらを遣ふ、人胆を消して、聞人多かり
し、平治、田所町の横町池洲長屋の表を借りて、伽羅油の見世を出し、江戸中の若者、こわ色覚たき者
は平治方へ来りて習ふ、少し能成ると、見世へ出していはせける、油もよく売出し、若者共其後々は名
人出て、平治はおくれに成る、平治病死して跡もなし、上方には前々よりありし由〟
〈江島生島事件は正徳四年(1714)のこと〉
◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・安永三年(1774)日記)
〝十月二十四日、(葺屋町)鶴市・鶴松へ寄、歌右衛門身〈身振り〉【鶴松】、三升〈市川団十郎〉・錦考
〈松本幸四郎〉・杜若〈岩井半四郎〉声色【鶴市】、丸や・東国やたて身【鶴市】
〈鶴松は身振り、鶴市は声色と身振り〉
◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)
〝声色の扇ハ指をはねて持ち〟「安六415」安永6【川柳】注「気取ったさま」
〈声色師には扇が必要不可欠のようだ〉
◯『後は昔物語』〔大成Ⅲ〕⑫278(てがらのおかもち(朋誠堂喜三二)著・享和三年(1803)序)
〝こはいろをつかふに、〽請取たりや其次は、是も同じく役者にて、市川ゑび蔵で頼ます。そこらの仕出
しは、市川の海老蔵でと留た所で、つかひ出すなども、今は古風となれり。雨のふる夜は一入ゆかし、
などは先ッなき事也。又こはいろを、五人か七人とかつかひ仕舞て、留めに短きせりふ様なる事を、昔
のこはいろつかひはいひけり。これも今は聞ずか、其云かたは、長いはおそれ有明の……こゝらでちよ
つ留袖ふり袖様へのおいとま乞と、ホヽうやまつて申すと、いふやうなる事をいひし也。
美成云、おのれ物心つきてより覚しは、こはいろといふもの、扇をかざしてのみつかふものと思ひゐ
たりしに、この三四年前か、とある所にてきゝしに、扇をさしかざせる事は今はせずとなり。おのれ
などはむかしのまゝがよきやうに覚へし〟
〈蜀山人の『六々集』に「春雨、柳花苑に宴するの狂歌并びに序」という戯文がある(文化十二年(1815)詠『大田南畝全集』
2巻p231)これは李白の「春夜、桃李園に宴するの序」を擬えるという趣向で、いわば李白の声色を遣った狂文狂詠であ
る。その中に「雨のふる日も一しほゆかしと、桃李園の序の声色をつかひて、柳花園の記とするもおかし」という行がある。
どうやら享和・文化年間頃の声色には「雨のふる日も一しほゆかし」という文句が付き物だったらしい。また「美成云」の
注によると「こはいろといふもの、扇をかざしてのみつかふものと思ひゐたりし」とあるから、美成が幼児であった享和以
前の声色には、扇が付き物だったことが伺える。美成は幕末の雑学・考証家山崎美成(寛政八年~安政三年(1796-1856)〉
◯『蛛の糸巻』〔燕石〕②278(山東京山著・弘化三年(1845)序)
〝(安永年間の中洲の賑わい)夜みせの見せ物も多かりし中に、鶴市といひし非人、歌舞技(ママ)どもの、
身ぶり、こわいろをなすに妙を得て、しかも美男にてありしゆゑ、婦女子にすかれ、濫行もありしとぞ、
さて其構(カマヘ)をなしたるさまは、今のみせ物芝居にかはらざれど、木戸銭は一人まへ百銅なり、是に
て鶴市が芸の妙をしるべし、此頃、市川八百藏とて、婦人にはことさらひいきにあひし立ものに、此鶴
市常もよく似たるゆゑ、顔をつくり、衣裳を飾り、其こはいろをつかへば、八百藏こゝに在るが如し、
是鶴市がはやりし所以なり、なす所の芸はすべて相手をとらず、物ぐるひ、ものがたり、扇の手など、
其外さま/\の事を、八百蔵、団十郎、仲蔵、団蔵、菊之丞、里好【女形】又は中やくしやまでも、そ
のこわいろはさらなり、顔つき、身ぶり、それかあらぬかと、目をぬぐふばかり、奇々妙々なり、はじ
めは常なみの非人手づま一ツ二ツなし、さて鶴市いでゝ一芸をなし、是をひとまくとして打出す【一ま
く一人まへ、百銅】〟