Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ こうせんが 光線画浮世絵事典
  〈小林清親が創始した西洋風絵画。江戸と欧化する明治とが混在する東京の光景を、光と影を巧みに使って表現した。明治九   (1876)年から十四年(1881)にかけて、大黒屋・松木平吉と具足屋・福田熊次郎から刊行された東京の風景画が代表的作品〉    ◯『毛鉛画独稽古』第壹・貳編 小林清親画 愛智堂 明治二十八年(1895)四月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)〈小林清親の解説による光線画作画法〉    ※(かな)は本HPが施した読みや送り仮名。(漢字・カナ)は補注    〝球 光線画 画法〈第壹編所収〉    削リタル鉛筆ヲ以テ 先(ず)大体ノ形ヲ写スコト。大体形了(おわら)バ暫々ニ濃淡ノ光線ヲ付(け)始ム。    先全図中ノ最(も)黒ナル処ヨリ写(し)始ム。決シテ一時ニ力ヲ入テ筆ヲ使フベカラズ。成ベク軽ク暫々ニ    筆ヲ全体ニ及ボシ球中ノ最白点及(び)光リアル処ニテ終ル     大体形 (球ノ図アリ)    総ジテ光線画ヲ修ルニハ遠近ノ度・光線ノ工合ニ心ヲ注グコト。又彩モナ(ク脱字か)一色ノ球ナリトモ    光線ノ理ニヨ(一字不明) 一方明ニ一方暗トナリ、明トナリタル球ノ周辺ハ如何、又暗陰ナル部分ノ周    辺ハ如何ト考ヒ(ママ)、又黒色ナル阜上ト(ママ)同黒色ナル球又器物ヲ置キタリトモ、阜ト器物トハ位置相    違スルガ故ニ、光線理上必ズ何レカ同黒色ノ内ニ濃淡ノ差別アルモノ故、ヨク/\注意シ画カズンバア    ルベカラズ。    尚又    ※(「阜上」は山や岡の上という意味だが、ここでは台くらいの意味か)    〈光線画を画くときは、遠近や光線の具合によって画く対象の様相が異なるから、そこに注意をして画くべきである。例えば     同色のものでも、その位置により明と暗の部分が生まれ、それによって濃淡の違いが生ずるからだと、清親はいう。では清     親の言う遠近や位置とは何との関係を指しているのであろうか。それはおそらく、画者と画く対象との間にある関係ではな     く、光源と画く対象との関係を指しているものと思われる。清親は、修行時代に写真技術やワーグマン経由で西洋画法を学     んでいる。それら西洋経由のものと江戸から続く多色摺木板画とが出会ったところに、清親の光線画は生まれた。ただ現代     の視点でいうと、清親は物それ自体の諸相を画く画家であって、物と自分との関係を画く画家ではなかったといえようか。     もっともこの『毛鉛画独稽古』には光線画の描法だけでなく、花卉人物などを画く「筆意画」の描法解説も載っている。こ     ちらは運筆の妙を見せるもので、物それ自体を注視してその様相を写す描法ではない。対照して言えば、「光線画」は物の     写実画で「筆意画」は意の表出画である。清親は「猫と提灯」「東京名所図」といった光線画を画く一方で「百面相」やポ     ンチ絵と呼ばれる戯画も画いている。清親の中では、西洋画法と伝統画法とは優劣なく併存していて、画くものによって選     ぶべきものという位置づけなのであろう。ついでに云えば、清親の光線画作品は明治十年代の中頃以降出版されなくなるが、     それをもってして、清親がその描法を捨て去ったとすることは出来ないと思う。この『毛鉛画独稽古』は、清親が描画を志     す人々に向けて教授したもので、明治二十八年の出版である。この時点でも、清親にあっては、光線画の描法が依然として     有用なものであったことを示している〉   〝猫 金魚 光線画〈第貳編所収〉    白クノコセシハ光線ノ為ニ光ル部分ナリ。木製品ナドノ光リト違ヒ、硝子及陶器類ノ光リハ鮮明ニ光ル    (二字不明)ナリ〟    〈材質による光沢の相違を画き分ける。ただ紙の白地を残した所を光る部分とするのは、塗り残したところを雪とするのと同     様に、いかにも日本画的な発想といえよう。光線画にも伝統描法は息づいているのだ〉   〝湯呑 茶碗 光線画〈第貳編所収〉    (大体図あり)    図中注意スベキ点ハ、同ジ図ナル経口ノモノニテ(一字不明モか)高低、又見ル位置ニヨリ種々形ヲ変ジ、    タトヘバ図セル如キ茶碗ニテモ、直下ニ見レバ(上面◯の図)ト見ヘ〈以下見る位置ヲ少しずつ下げる〉少シ    横ヨリ見れば(上面楕円+側面)、今少し横ヨリ見レバ(図略)、今一層正横面ヨリ見レバ(側面図)トナル。    コノ理ヲ充分記臆シ置ベキ事ナリ〟    〈同じ物でも視点の位置によって見える様相は異なる。それを意識して画けというのである〉  ◯「私の幼かりし頃」淡島寒月著(大正六年(1917)五月『錦絵』第二号)   (『梵雲庵雑話』斎藤昌三編・書物展望社・昭和八年(1933)刊・引用は岩波文庫本p391)   〝(維新時の)戦争騒ぎが終ると、今度は欧化主義に連れて浮世絵師は実に苦しい立場になっていた。普通    の絵では人気を惹(ヒ)かないので、あの『金花七変化』という草双紙(クサゾウシ)鍋島の猫騒動の小森判之丞    がトンビ合羽を着て、洋傘を持っているような挿絵があった時代であった。そして欧化主義の最初の企て    の如く、清親の水彩画のような風景画が両国の大黒屋から出板されて、頗(スコブ)る売れたものである。役    者絵は国周(クニチカ)で独占され、芳年(ヨシトシ)は美人と血糊のついたような絵で持て、また芳幾は錦絵として    は出さずに、『安愚楽鍋』『西洋道中膝栗毛』なぞの挿絵で評判だった。暁斎は万亭応賀(マンテイオウガ)の作    物挿絵やその他『イソップ物語』の挿絵が大評判であった〟   〈「清親の水彩画のような風景画」が光線絵にあたる〉  ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈浮世絵は〉国周、芳年の没後そろそろ下火、今は滅法珍重される清親の風景画も当時は西洋臭いとて    一向さわがれず、僅かに日清戦争の際物で気を吐いたが、その後は月耕、年方等一門が踏み止まって相    当多教の作品をだした。それも上品過ぎて却って一般には向かずじまい。日露戦争時代には俗悪な石版    画が幅を利かせて、錦絵は全く型なし〟   〈清親の風景画が光線画にあたる〉