◯『我衣』〔燕石〕①186(加藤曳尾庵著・文政八年(1825)以前成立)
〝女子の櫛、笄、寛文迄は鯨なり、其後、鼈甲の薄く黒きをゑり出し、頭にいちやう或ははつれ雪などの
類を細工にせしを最上とせり、後、鹿の角を蘇枋染にして、朝日の櫛、笄と云、上品也、後に元禄年中、
京都細工にて、銀にて角切かくの内、或は丸の内に種々の紋を彫すかしにして、鼈甲の頭にさす、櫛の
棟にも、銀にて梅の枝或は唐草などをすかし、さやのやうにはめたり、重きゆへ髪下るとて、後は不用、
享保末よりびいどろ笄はやる、筆の軸のやうにして五色の綿を入たり、後にはびいどろを捻りて、かう
がいにさす、又元文年中、三味線の根緒にて、けまんむすびにして、かうがいにさす、
(*「けまんむすび」の笄の図)
(* 梅枝形の笄の図)
この如く拵へ、かうがいとす、又元結を糸にて作る〟
◯『近世風俗史』(『守貞謾稿』)
(喜田川守貞著・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)
◇巻之十二「女扮下」②247
〝今世、江戸の笄簪、図のごとく短きを流布す。しかりといへども画図を見るにはなはだ長く画ける物多
し。故に、先日始めて江戸に来る大坂の女客あり、その簪太だ長し。その故を問へば、江戸にて短き物
を用ひず、必ず簪は長きを流行と察して、特にこれを製す所なりと。なんぞ再び問ふ、何によりて察し
て長きを流布とすと云はば、江戸一枚摺(ズリ)と云ふ錦絵(ニシキエ)を見るに笄簪太だ長し、故に江戸風に
倣ひてかくのごとしと。今当所に来て画図の非なるを知るといへり。今世の人すら東西この誤りあり。
いはんや後世の人、今の画を見て証とすること用捨あるべし〟
〈喜田川守貞は「片はずし髷」のところ(同巻の②248)で、曰く「浮世絵には専ら真を写さず」「これその画面の美を
専らとして真を失す」と。笄簪を長く描くのも同じであろう。「髷」の項、参照のこと〉
◇巻之二十「妓扮」③231
〝江戸吉原遊女の扮は、京坂の太夫・天神よりはなはだ華なり。江戸市中の笄は今も長きを用ひ、櫛もは
なはだ大形なるを二枚さし、簪背の左右各三本、皆耳掻(ミミカキ)と髪掻の間に定紋、あるひは花形等の作
りものありて、御殿女中の条の図す銀釵(ギンサイ)の形に似て、またはなはだ長く八、九寸もあるべく、
前の左右には紋なしの簪、左右これまた各三本をさし、簪すべて十二本さし、または櫛の伏せざるやう
に、前より竪に一、二本さすもあり。髷尻を高くし専ら島田髷なり〟