◯「幕末時代の錦絵」淡島寒月著(『浮世絵』第二十一号 大正六年(1917)二月)
(『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p121)※(かな)は原文の振り仮名
〝(御維新当時)
新版の錦絵を刷出(すりだ)しますと、必ずそれを糸に吊るし竹で挟(ハサ)み、店頭に陳列してみせたもの
です。大道などで新らしい錦絵を売るという事はありませんでした。その頃はもう写楽だとか、歌麿だ
とかいう錦絵は、余り歓迎されませんで、蔵前の須原屋の前に夜になると店を出す坊主という古本屋が、
一枚一銭位で売っていたものです。それでも余り買う人もなくって、それよりも国芳とか芳年などの新
らしいものが歓迎されたのです〟
〈蔵前の須原屋は浅草茅町の松成堂・須原屋伊三郎か〉
◯「古版画趣味の昔話」淡島寒月著(『浮世絵』第三十二号 大正七年一月)
(『梵雲庵雑話』岩波文庫本 p128)※(かな)は原文の振り仮名
〝明治初年頃には、浅草見附の辺などの路傍に出た露店の店頭に、つまらぬ黄表紙類を並べた傍へ、尺余
の高さに積んだ錦絵を、選(よ)り取(ど)り一枚金一銭位で売っていたのである。この中には、素(もと)
より下らぬ絵もあったが、今から考えれば、嘘のようだが、写楽の雲母摺(きらずり)なども確かに交っ
ておった。一枚一銭の絵が、僅か四、五十年の間に、幾百円に騰(あが)るとは、如何(いか)に時世の変
遷とはいいながら、夢のような話である。
この時代に、馬喰町に住む鼠取薬売を本業とする吉兵衛というのが、この方で売れていて、黄表紙類の
露店を張っていたのである。この一例に徴しても、当時錦絵古書などが、如何ほど世人から冷淡に扱わ
れておったかが明らかに知られる。
しかるに明治も十年近くなってからは、社会の秩序もやや整い、世間の人心にも少しは余裕が生じたら
しく、幾分か趣味の方面に注意を払う人の見られるようになった。
今、その年月を判然と記憶しないけれど、多分この時期であったように思うが、吉原の廓内で、古い錦
絵の陳列会が開かれたのである。これは場所の選定がよかっためでもあろうが、これは世に古版画趣味
を普及させるに与(あた)って力があったらしい。これと前後して、当時また猿若町にあった劇場で、演
劇に関する展覧会を開いて、紅絵時代などから当時のものに至るまで、役者絵の類を陳列して世人に観
覧させたことがある。その頃、浅草の松山町に、我楽堂という骨董品店があって、其処(そこ)に古い錦
絵の類を多く陳列したことがあって、追々に古い版画に対する趣味好尚が、世間に普及するようになっ
て来たのである〟
その時分、東京で名高い古書店で、私のよく買いに行ったのは、三久、京常、その他、池の端の斎藤と
てわれわれの同好者間では「バイブル」と綽名を附けておった店、それとその頃藤堂前(和泉町)にお
った今の好古堂などである。京常は主に軟文学に関する古本を取扱っておった店で、かつて久保田米僊
氏がこの店で、オランダ絵を一枚一銭ずつで買ったことがある。その頃は、新(あらた)に流行し始めた
万国覗(のぞき)からくり眼鏡の看板に、司馬江漢等の銅版画で、今ならば珍品として騒がれるほどのも
のを、惜し気もなく使用しておった時代であるから、オランダ絵の安価なことも、さまで驚くには足り
ないのである〟
〈久保田米僊は鈴木百年門の日本画家。日清戦争に画報記者として従軍。失明後は評論等に活躍する。明治39(1906)
没、55歳〉