Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ こどもすもう 子供相撲浮世絵事典
 ☆ 寛政六年(1794)    ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪427(蜂屋椎園著)   〝大童山文五郎    御代官鈴木喜左衞門殿御支配所、出羽国村上郡長瀞村、名主弥兵衛組下百姓武右衛門伜、当酉貳才、去    ル申二月十五日出生也。     一 丈貳尺八寸     一 目方拾貫め     一 手首壱尺廻り クビレ候処五ヶ所     一 足首廻り壱尺 廻りクビレ候所七ヶ所     一 腹ノ廻り貳尺七寸    右ハ寛政元年酉年也。        羽州村山郡長瀞村農夫の子文五郎、当年七才     一 かた壱尺五寸     一 すね壱尺五寸まわり     一 むね壱尺     一 あしのひら八寸五分     一 うで壱尺八寸まわり     一 たけ三尺九寸七分也     一 はら三尺六寸まわり     一 目方十九〆目余     一 もゝ二尺二寸まわり〟    〈天明八年(1788)生。寛政元年(1789)二歳時と寛政六年七歳時の体格である〉     ◯『増訂武江年表』2p10(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (寛政六年・1794)   〝出羽国より大童山文五郎出づ、十一歳。肥満して二十二貫あり。角力を取りしが年長じて弱くなれり。     筠云ふ、四月頃のことなり〟    〈年齢十一歳は何に拠ったのであろうか〉    ◯『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥66(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   (寛政六年・1794)   〝相州より大童子出づ、久(ママ)五郎と云、十一歳にて肥肉たくましく、重さ二十二貫目有と云、所々にて    見物に招く、駕籠にて至る〟    〈喜多村筠庭信節にしては珍しく出身国・四股名・名前・年令とも不正確な記事である〉    ☆ 天保七年(1836)    ◯『藤岡屋日記 第二巻』(藤岡屋由蔵・天保七年(1836)記)   ◇子供相撲 p627   〝十一月、本所回向院境内にて大相撲之節、土俵入。信州南原産 神通力国吉 申七才    身丈四尺余、目方廿貫目    木村庄之助、信州にて貰請来る也〟    ◯『事々録』〔未刊随筆〕⑥251(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (天保七年・1836)   〝江戸へ信州川中島の産にて、七才に成る男の二拾貫目有ける大兵の者、神通力国吉と呼ばれ、角力取の    土俵入をなさしむと申すとぞ〟    ☆ 嘉永三年(1850)    ◯『藤岡屋日記 第四巻』p214(藤岡屋由蔵・嘉永三年(1850)記)   (十一月二十二日、回向院において相撲興行)   〝初日より土俵入り致し候    丈ケ四尺一寸、重サ十八貫目、鬼若力之助 少年八歳     生国上総国武射郡戸田村にて、相撲年寄浦(ママ)の浦与一右衛門門人に相成候〟    〈下記の国芳画には「勝浦与一右衛門門弟」とある〉
     「鬼若力之助」 一勇斎国芳画(山口県立萩美術館・浦上記念館所蔵)     ☆ 文久三年(1863)    ◯『増訂武江年表』2p193(斎藤月岑著・明治十一年成稿)   (「文久三年(1863)」記事)   ◇子供相撲    〝夏、谷中本行寺境内に幼児集りて相撲の技を催しけるが、次第に長じ、後には何方となく(素人の子供    なり)輻輳して、互いに贏輸(カチマケ)を争ひしかば、其の父母もこれに泥(ナズ)み、美麗なる褌襠(マワシ)を    拵へ、土俵をも築かしめたり。下谷常在寺、本郷真光寺その外所々の寺院塁地等にて催しける。秋にい    たりても猶盛なり(但し、木戸銭桟敷代等は更に受くる事なし)〟