☆ 天保十四年(1843)
◯『浪華百事談』〔新燕石〕②228(著者未詳・明治二十五~八年頃記)
(天保十四年(1843)頃の記事)
〝◯首ふり芝居、浄瑠りの文句に合せ、小供役者が詞を発せず、身ぶりして狂言をする物の名にて、今も
時々興行せること有れ共、此所の鰻谷の浜の小家にて興行せしものは又異にして、役者皆面をかむりて
芸をなし、始て興行せしは、猿ヶ島の敵討にて、其次の興行は浦島一代記なり、尤も、是は浄るり芝居
も人形入にて、興行を従前の如くせし時なり、
◯子供しばゐ、首ふり芝居、凡六十日余興行せし後ち、十二三歳位の子供役者のみにて、尋常の歌舞伎
芝居を、うなぎ谷の浜の小家にて始る、されど、舞台引まくは、道頓堀芝居より差ゆるさず、依て、上
へ引上る幕なり、此芝居続々大入せり、其価、一日割込壱人前八拾八文なり、後には此処のみならず、
御池橋の詰木綿橋の辺にも興行せり、されど、鰻谷の小家特別にいつも大入せしなり、而して、此築地
がため年限おえ、又社寺内芝居免許となるにより、旧の如く、社寺内にて興行する事となれり〟
〈これらの見世物は天保十四年頃の大坂西横堀下流新築地で興行されたもの〉
☆ 弘化三年(1846)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p101(藤岡屋由蔵・弘化三年(1846)記)
〝十一月十六日初日也。牛込赤城明神、先年焼失に付再建、旁百日之間香具芝居・子供狂言、并かんざし
・はみがき商内相願候処、御聞済有之、百日之間興行、雨天日送り也〟
〈子供芝居の出し物は「本朝廿四孝」。願いには十九才を頭として提出したが、実際は四、五十才だったり、随分さば
を読んでいた〉
☆ 弘化四年(1846)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p166(藤岡屋由蔵・弘化四年(1846)記)
〝五月廿八日、湯嶋天神境内ぇ此度坐本七右衛門、晴天百日之間、香具・子供芝居相願候之処、此度御聞
済に相成、今日目出度三番叟を舞、六月三日狂言初日也
(演目、木下蔭狭間合戦・一谷嫩軍記・忠臣蔵裏表・義経千本桜)
桟敷壱〆五百文、土間六人詰九百文、土間割込壱人前百五十文、木戸廿四文
右は芝居葦簀張の源にて興行致し、御停止・盆休等の日送りに致し、九月廿四日目出度千秋楽也〟
☆ 嘉永二年(1849)
◯『藤岡屋日記 第三巻』p458(藤岡屋由蔵・嘉永二年(1849)記)
◇赤坂一ツ木威徳寺開帳
〝三月廿日より閏四月廿日迄
伝教大師御作 海中出現不動明王 自坊に於て六十日之間、開帳有之に付、
境内ぇ越後国海中より不動尊出現の図、庭出来候処に、余り大行故に寺社奉行より御差留にて取潰しに
相成候。
子供芝居義経千本桜、忠臣蔵裏表、大入大繁昌に、喧嘩有之〟
☆ 嘉永五年(1852)
◯『藤岡屋日記 第五巻』p146(藤岡屋由蔵・嘉永五年(1852)記)
◇子供芝居
〝八月十五日より、平川天神子供芝居 桜草紙主水(ヌシハ)白糸(シライト)〟
◯『増訂武江年表』2p127(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(嘉永五年・1852)
〝八月下旬より百日の間、麹町平河天満宮境内にて、子供芝居興行す〟
☆ 安政二年(1855)
◯『増訂武江年表』2p143(斎藤月岑著・明治十一年成稿)
(安政二年・1855)
〝正月より回向院境内にて、子供芝居興行〟