☆ 天保十三年<十一月>
筆禍 錦絵 「子供遊踊尽」「子供遊長唄尽」「子供踊尽」「蚕家織子之絵」
「雅六芸の内」「忠臣蔵五段目之仕組絵」
処分内容「子供遊踊尽」「子供遊長唄尽」「子供踊尽」の子供絵は禿絵のみ発禁
「蚕家織子之絵」 発禁
「雅六芸の内」 発禁
「忠臣蔵五段目之仕組絵」発禁
〈絵師に対する処罰はなかったようだ〉
処分理由 禿絵は遊女絵の同様風俗に拘わる
「蚕家織子之絵」「雅六芸」は続き絵は四枚以上にわたる
「忠臣蔵五段目之仕組絵」は役者絵芝居絵と紛らわしい
◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十八」(書物錦絵之部 第十七件 p98)
(町年寄・館市右衛門提出の北町奉行宛伺書)
〝子供踊尽五枚
役者絵ニ紛敷旨を以、絵双紙掛品川町名主(竹口)庄右衛門差出し申候
全役者似顔ニハ無御座、此位之絵柄は差置可申哉、且ヶ様之絵組ハ壱枚立ニ見極候ても可然、彩色ハ
七八遍限可相改旨可申渡奉存候〟
(この伺いに対する町奉行所・市中取締掛与力の附札)
〝書面館市右衛門伺之通被仰渡、可然哉ニ奉存候 市中取締掛り〟
〈禁制に役者絵に紛らわしいとして、絵双紙改掛(アラタメカカリ)の名主・竹口庄右衛門が町年寄の館市右衛門に「子供踊
尽」の錦絵を差し出した。これに対して、館は、これは全く役者似顔絵には当たらないし、これくらいの絵柄は咎め
るまでもない。また尽(ツクシ)となっているものの、一枚立(それぞれ一枚一枚が一つの作品という意味か)と見なし
得るので三枚以上の続絵とも違う、従って出版に支障はない、ただ彩色の方は七八遍摺を限りとする、これで出版許
可を与えてはどうかと伺いを立てたのである。町奉行は館の伺いをそのまま認めた。以下、同様の伺いと奉行所の判
断が続く〉
〝懸り名主鈴木町(和田)源七より差出申候
子供踊尽 五枚
同長唄尽 四枚
此類壱枚立ニ見極候ても可然、但言葉書入念相改候様、遍数七八遍限り仕候ハゝ、絵柄ハ差置可申哉〟
〈和田源七からは「子供踊尽」の他に「子供長唄尽」なるものも差し出された。館は前出同様、これらは一枚立と見な
して差し支えない旨を以て許可を求めた。但し画中の言葉書きを入念に改めるよう注文を付けている〉
〝懸り名主鈴木町源七より差出申候
子供踊尽 拾枚
内、禿絵ハ差止メ、其外ハ壱枚立ニ見極候儀可然、尤彩色ハ、何れも七八篇限り可相改旨、可申渡
奉存候
蚕家織子之絵 拾枚
是ハ全十枚続ニ付、三枚以上ノ廉ニ差止申候
雅六芸の内 壱枚
是ハ六枚続ニ而、商ひ候ハゝ右同断〟
〈以上のやりとりがなされたあと、天保十三年十一月晦日付で、以下のような裁断が、町年寄・館市右衛門を通して、
絵双紙掛名主に下された。これらは館の上申内容を奉行所側がすべてそのまま受け入れたかたちである〉
〝子供遊踊尽 五枚
子供遊長唄尽 四枚
子供踊尽 拾枚
内、禿絵ハ差止
右品ハ、板木等継セ不相見、壱枚立ニ見極候も可然哉
但し、芝居ニて興行致居候事を、同時ニ右子供絵差出候類有之候ハゝ差止置、下絵ニて可相伺候
〈子供絵でも「禿(カムロ)絵」は発売禁止。四、五、十枚とあるが、これは続き物ではなく、一枚絵仕立てと見なしうる
ので咎めるまでもないとした。但し芝居を写したものは禁止、下絵の段階で伺いを立てるべしとする〉
蚕家織子之図 拾枚
右ハ、一品之次第ニ続キものニ付、三枚以上之廉見極可然候
〈これは続き物であり、四枚以上は問題ありとする。この裁断のあった十一月晦日、続き絵は三枚までとする町触れが
同時に通達された。本HP「浮世絵事典」「浮世絵に関する御触書」の項参照〉
雅六芸之内 壱枚
是ハ、前ヶ條之格を以見極可然候
〈これも続き物と見なされた。だが壱枚の意味がよく分からない〉
忠臣蔵五段目之仕組絵 壱枚
右ハ、役者・狂言絵と紛鋪候間、差止可申候〟
〈これは役者絵・芝居絵と紛らわしいとして発売禁止。同年六月、役者似顔と芝居趣向の絵を禁じる町触れが出てい
た〉
〈なお上出作品の絵師について、岩切友里子氏は、同名で複数の版元から出された「子供遊踊尽」を除いて、次のように
特定している。
「子供遊長唄尽」国芳画・若狭屋与市版。七図確認の由。
「子供游踊尽」 英泉画・和泉屋市兵衛版。八図確認とある。禿絵は禁止されたはずだが「羽根の禿」という作品があ
る由。
「蚕家織子之図」国芳画・佐野屋喜兵衛板。「第一」から「第十」までの通し番号のある作例と「松・竹・梅」「天・
地・人」に直した作例とがある由。
「雅六芸之内」 国貞画・上州屋金蔵版。(以上「天保改革と浮世絵」(『浮世絵芸術』143・2002年刊)
このうち「蚕家織子之図」のこの変更は、同年十二月付の町触れを受けてのものと考えられる。例えば「十哲」といっ
たような作品の場合、いったん三枚続(これに「上・中・下」「天・地・人」などと彫り付ける)にして、これを三度
に分け、最後の一枚には「一枚絵」と彫り付けて提出するよう指示があった。
これら子供絵について言えば、『藤岡屋日記』翌年天保十四年の五月記事に「子供踊錦絵、国貞画、子供踊りの錦絵、
絶板ニ相成、其外役者名前紋付候品、同断也」とあるから、その後も禁制品が出回っていたようだ〉
☆ 天保十四年(1843)<五月>
筆禍 錦絵「子供踊り」国貞画
処分内容 ◎板元(不明)板木没収(絶板) 売買禁止
◎画工(記載なし)〈国貞に対する処罰はなかったようだ〉
処分理由 不明
◯『藤岡屋日記』第二巻(藤岡屋由蔵・天保十四年記)
◇②337
〝五月十九日
此節豊国の画、子供踊りの錦絵、絶板ニ相成、其外役者名前紋付候品、同断也〟
〈豊国とあるが、下出の五月廿四日と同じ記事だから、国貞のことであろう〉
◇②340
〝五月廿四日
子供踊錦絵、国貞画、板行御取上ゲ也、売々(買)御差留、其外役者名前紋付候もの、同様ニ御差留也〟
〈昨年末から子供絵に対する規制が強化されたが、市中には依然として禁制品が流通していたようである。「浮世絵の筆
禍史(3)」天保十三年の項参照〉
◎参考(子供絵規制)
△『江戸町触集成』第十四巻 p363 五月二十二日付(触書番号13941)
〝錦絵と唱、壱枚摺ニ致し或は双紙之類、絵柄格別入組無益ニ手数を掛、高直ニ売出間敷旨、去寅六月中
申渡置候次第も有之候処、近頃子供踊抔と名付、歌舞伎狂言ニ紛敷彩色絵等相見、不埒之至ニ候、向後
団扇絵其外都て右形容ニ不似合様、弥絵柄改正いたし、成丈手数不相懸様摺立、篇数其外之儀先達て申
渡之通堅可相守、名主共も入念相改(アラタメ)、万一不改受売出し趣及見聞候ハヽ其段早速可申出
一 総て商物其外、不依何品ニ、歌舞伎役者之名前紋所を附候儀不相成候間、名主共支配限不洩様右之
趣可申通、若相背候もの於有之は、吟味之上急度咎可申付
右之通被仰御奉畏候、為後日仍如件
天保十四卯年五月廿二日〟
〈歌舞伎狂言に紛らわしい「子供踊」と称する錦絵の禁止、そして役者名・紋所の使用を禁止。子供絵に対する昨年来
の規制、そのさらなる徹底を図った町触である〉